熊野古道

Contents
  1. 熊野古道の歩き方
  2. 熊野古道とは、当時、人々が参詣していた道のこと、参詣道(さんけいみち)です。
  3. 世界遺産とは?
  4. 紀伊山地の霊場と参詣道とは?
  5. 熊野三山と熊野詣って?
  6. 牟婁郡と熊野とは?
  7. 高野坂(こうやざか・こやのさか)
  8. 補陀洛山寺(ふだらくさんじ)
  9. 補陀洛渡海(ふだらくとかい)
  10. 補陀洛山寺のご本尊

熊野古道の歩き方

本年は、みなさんにとってどういう1年だったでしょうか。

故郷、南紀・紀南をこよなく愛する当事者として、年の最後に、歩く時の注意点を記します。

と言っても、ここでの一番の大きな理由は「自戒」です。

自然豊かな熊野古道を、甘く見ちゃダメということが要旨です。

これだけの内容では十分ではないですが、1年を振りかえってリスト化します。

季節はいつがいいでしょうか?

それは単純に春と秋ですね。

春

地球の温暖化という、言葉では語りつくせない1年でした。

11月の末となっても、関西地方は、暖かい日が続いています。

そういう酷暑の夏だったこともあり、気候が最適の春と秋は、問題なくお勧めです。

3月下旬以降の春、そして10月以降の秋。

秋

夏は海風が吹くので、海岸地方は涼しいと思いがちですが、日差しがきついです。

これは山の中もそうです。

自然豊かな山の中なので、さぞかし涼しいだろうと思うのは甘いです。

と、言っても、今年の夏の酷暑の中、そんなことは気にもせず熊野古道を歩きまわりました。

冬は山の中の日の入りは早く、暗くなるのも早く、寒いです。

無理することなく、宿泊所に戻ることが賢明です。

天候はやっぱり雨、風のない日がいいですね

雨が少々降っていても、背中のリュックが隠れる位の大きなレインコートを着て歩けます。

が、山の固い土道、大きい石が積まれた山道、石畳、多数の階段等々、濡れた足元の油断は禁物です。

そこに多数の枯葉が落ちてます。

枯葉が一見、乾いていて、問題のない箇所も滑ってしまいます。

風雨

当方は、事前によく天気予報と気温を見て、できるだけ良好な日を選んでいます。

雨、風がある様子であれば、計画を伸ばします。

今年は、計画を変更したのは1-2回でしたが、必要であれば勇気をもって変更すべきと個人的には思います。

服装

靴と靴下

履きなれたウォーキングシューズやトレッキングシューズがいいですね。

トレッキングシューズ

私は、日常使っているスニーカーを使用してきましたが、トレッキングシューズをそろえる予定です。
スニーカーは、足底が、気づかぬうちに摩耗してしまうことがあり危ないからです。

足首を守るミッドカットかハイカットで適切な足のサイズ(通常より大きめ)で選ぶつもりです。

また、トレッキングシューズは底が固いので、疲労度も軽減します。

秋

大切な留意点:

スパイク付きの靴や底の硬い靴で歩いた場合、道を傷め、雨水により土が流出してまいます。

また、トレッキングポール(ストック)を使用する場合も同様に、先端の石突きにゴムキャップ(プロテクター)を着用してください。

着用せずに使用すると石突きで道を傷め、雨水により土が流出してしまいます。

実は、私とパートナーは皮膚が弱い傾向があります。
何もない時は文字通り安全に過ごせるのですが、草原のような、草が沢山ある所を少々歩いただけでカブレたこともあります。そして、どうしてカブレたかが全く不明でした。

また、サザンカやツバキに潜んでいるチャドクガという毛虫をご存知でしょうか。
知らないうちに、服の上に落ち、その後、長期間ひどい目にあいました。
チャドクガは古道にはないかもしれませんが、知らないうちに、こういうひどい目にあうという一例です。

それ故、自然の中に入るときは特に注意しています。

まして、自然豊かな熊野古道とその近辺には、元気な動物たちが沢山います。

警告されているのは:マムシ、ムカデ、スズメバチ、シカ、クマ、ダニ、ヒル

そう簡単に遭遇することはないはずですが、足元に充分注意しましょう。

しっかりした靴と、足元をしっかり覆う分厚い靴下は、四季を問わず私たちにとっては必須アイテムです。

靴下シューズ

上下の服装

四季を通して、長袖、長ズボンは最低条件です。

肌を直接出すということはしません。

マウンテンパーカー(フード付き)は、透湿性、耐久性、防水性、防風性があり、頑丈で、使いやすいです。

ウインドブレーカー(ヤッケ、アノラックの類)も気楽に使えます。

要は、伸縮性があって速乾性のある服、雨や泥で多少汚れても平気な服です。

汗をかいたら着替えたい、そして寒くなったらなにか羽織りたい、そういう時に困らないで調節できるようにしておきましょう。

コットン100%はお勧めではないですが、私のお気に入りの服がそうなので、真夏でも、コットン100%の上下で行くことが多いです。

そして、車での外出なので、着替えを持っていきます。
必要に応じて、道の駅で車の中で着替えています。
山道を歩いた後、知り合いに会う時に、服装を着替えてさっぱりした格好で会えるというのは、お勧めです。

ご自分の手元にある、活動しやすい服が多様にあるかと。

そこから選ぶといいですね。

その他

お水軍手

+ 帽子、キャップ類 日射病予防、ケガの防止等、四季を通じて使用します。蜂などの虫よけにも。

+ 十分な飲料 適宜。夏は多めに用意し塩分補給も。自動販売機がない場所があります。

+ リュックサック(ザック、ナップサックの類)両手が使え、肩や腰への負担が軽減します。

+ 手袋・軍手 防寒だけでなく、怪我予防にもなります。これも四季を問わず必須アイテムです。

+ 昼食、スナック、補助食 お昼ご飯を挟む場合は持参。宿により入手可能、又地元での購入もあり。

+ タオル 汗拭き用。汗が冷えると身体が一気に冷えてしまいます。寒い時は首につけると暖かいです。

+ 地図 道標が分かりづらい場所も。携帯の圏外となるのも多い。適宜お気に入りの地図があるかと。

+ ビニール袋 ゴミを入れたり、着替えを入れたり。雨の日には特に重宝します。沢山用意します。

+ レジャーシート 休憩時にお尻が濡れないように、汚れないように。地面が湿っていることもあります。

+ クマ除けの鈴 山あいのルートを歩くときは持っていると安心です。念のため。

+ 雨具 適宜、リュックをカバーする大きいサイズのレインコートが便利です。

どうぞ参考にしてください。

帽子ジャケット

最後に

私たちは、1日に多くて2-3ヶ所の熊野古道の各地と、食事場所、お店の訪問をしています。

1ヶ所で、できるだけゆっくりと時間を取りたいと予定してます。

たまたまですが、道端で会った地元民と小さな質問からお互い始まり、話し始め、ということが往々にして起こりました。

みなさん、素朴、知識豊か、正直で、お互いに話が尽きることなく会話が続きます。

故郷への大きい愛と豊かな知識―みなさんに共通していることです。

話の内容がいたるところに飛び、本当に沢山の話を今年は伺うことができました。

「一期一会」という言葉がありますが、一会にするのはもったいないくらいの衝撃的な話も多々伺いました。

世界遺産も宝ですが、「人々との出会い」も、それ以上の宝物と自覚した「熊野古道の歩き方」といたします。

リックサック

熊野古道とは、当時、人々が参詣していた道のこと、参詣道(さんけいみち)です。

その名前の通り、「道」そのものが、世界の共通財産として第一級のクラスに値するとして選ばれたという、

ユニークさを持った「世界遺産」です。誰もが歩いていける「道」として選ばれるという、

その文化性の特異性は他の追随を許さないのではないでしょうか。

宇久井は、「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」に基づき、2004年の登録の

「紀伊山地の霊場と参詣道」(きいさんちのれいじょうとさんけいみち)という世界遺産に含まれる、

そのすぐソバの区域です。中辺路(なかへち)です。

同時に、吉野熊野国立公園の第2種特別地域に指定されています。

もちろん、宇久井全域がそうではありませんよ。

そんなことになったら大騒ぎになります。
コーヒーブレイク

第一級に相当すると言っていいような自然に囲まれ、世界で大切に保護していこう

という文化遺産とともに暮らしている地域です。

英語名だと、「Sacred Sites and Pilgrimage Routes in the Kii Mountain Range」となるそうです。

なんだか、こちらの方が理解し易くなるので、引用しておきますね。

世界遺産とは?

人類共通のかけがえのない遺産として、世界が認め、他に類を見ない普遍的価値を持つものとして

大切に保存していこうと決心し登録するのが、世界遺産です。

1972年ユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)

に基づいています。

文化財、遺跡、建造物、景観、自然、等々が世界遺産リスト(世界遺産一覧表)に登録され、人類が

共有すべき顕著な普遍的価値を持ちます。

簡単に言うと、世界が認めた遺産ということで、その名称そのままです。

日本での世界遺産の一番手は、奈良の法隆寺です。

法隆寺姫路城

7世紀からの木造建築物として世界最古とされており姫路城とともに1993年に、日本で最初に

登録されました。その後、文化遺産、自然遺産合わせて25件の世界遺産が選ばれてます。

外国では、エジプトのピラミッド、フランスのベルサイユ宮殿ですね。

エジプトのピラミッドフランスのベルサイユ宮殿

紀伊半島の世界遺産の正式名は「紀伊山地の霊場と参詣道」(きいさんちのれいじょうと

さんけいみち)です。2004年に登録されました。

世界では2例目の「道」としての選ばれたのが「熊野古道」です。

1例目は1993年のスペイン・フランスの「サンティアゴへの道」の巡礼ルートです。

「サンティアゴへの道」の巡礼ルート

ただの「道」と見過ごすことなく、世界が認める遺産とし、それも二つしかないという貴重な

「道」ということになりますね。

紀伊半島に散在する「熊野三山」、「高野山」、「吉野・大峯」を参詣道(さんけいみち)でつなぎ、

広範囲の一帯を遺産としたのは、なんとクリエイティブな選択なんでしょうかと個人的にも絶賛いたします。

紀伊山地の霊場と参詣道とは?

英語名だと、「Sacred Sites and Pilgrimage Routes in the Kii Mountain Range」となります。

こちらの表現のほうが、この地域の特性が分かるような表現のような気がしますね。

特筆すべきは、これは自然遺産ではなく、文化遺産です。

文化遺産とは、顕著な普遍的価値を有する記念物、建造物群、遺跡、文化的景観などを言います。

重ねて言いますが、文化的景観が理由で登録されてます。なんと。

文化的背景の意味は、「人間の様々な営みと自然が一体となって形づくられた特別な意味のある景観」

のことだそうです。

熊野古道熊野古道

「山や森などの自然を神仏の宿る所とする信仰が形づくった景観」として,高く評価されています。

なんだかとてもよく分かります。

心にストーンと落ちます。

熊野古道

神仏習合

神仏習合という言葉を学校で習いました。

「言葉」自体と意味は言うに及ばず、「生活」の一部となってしまっているので、説明する手間もせず、

考えることもなく、私たちは、過ごしてしまっている言葉ではないでしょうか。

それほど身近な文化、生活スタイルです。

「神社とお寺には大きい差はない」、「神と仏に大きな差はない」、「木々、山、岩に神と仏が宿る」、

「先祖は仏、神である」というーどう言えば適切となるのか自信がないですが、日本古来からの

スピリチュアル性を実践し、具現した場所と言えます。それが紀伊山地、紀伊半島です。

スピリチュアルという言葉には、イカガワシイという雰囲気があると、いう人も沢山いるでしょう。

私は、この方面では、この上なく鈍感なので、そういう指摘があっても、トンと分かりません。

ひとつの半島に熊野三山(速玉神社、那智大社、本宮大社)、吉野・大峰、高野山という、異なった聖地が

共存しても何らの違和感もなく、その間を、紀伊山地の深い森林の中を這う熊野古道で結び、崇拝、

崇敬の場として誰もが参詣するという、なんと特異な平和共存の精神かと感慨いたします。

紀伊山地の奥深い自然と信仰がひとつとなり,万物の源となる自然を神、仏として畏敬するという精神を

表すというような特徴を持つ世界遺産は他に類がないでしょう。

同時に、日本古来の神々への信仰と、日本に伝来した仏教が結びつき、神と仏が同じとする神仏習合

という、思想を生み出したことが、日本の東アジアにおける文化交流の証として高評価を獲得しました。

紀南のすばらしさを、言葉で説明したのですが、なかなか・・うまくいきません。

なんだか分かりにくい言葉ばかりが並びます。

東牟婁郡那智勝浦町でいいますと、具体的には(熊野三山の)熊野那智大社と青岸渡寺、那智大滝、

那智原始林、補陀洛山寺(ふだらくさんじ)、中辺路(なかへち)のことです。

なんや、かんやと固いことはなしとして、どうぞ、いつでもご訪問いただき、楽しんでいってください。

スマイル雲

宇久井からは車で近距離アクセスできる範囲内にあります。

熊野三山と熊野詣って?

熊野古道は全体でおおよそ800㎞から900㎞あるそうです。

どこの出発点からどこまでの終結点を言うかにより、距離数は変化します。

大辺路(おおへち)、中辺路(なかへち)、小辺路(こへち)、伊勢路、紀伊路、大峰奥駆道(おおみね

おくがけみち)、高野参詣道(こうやさんけいみち)の7コースがあり、一番人気のある、

主要な道が中辺路です。全行程を踏破した人はいるのでしょうか。

あるいは「自分は、そんな距離を歩けるほどの健脚ではないのに、歩かなくてはいけないのか」なんて

思いますか。人それぞれですが、何よりも事前の準備が大切です。
コーヒーブレイク

基本、山道なので、事前の十分すぎるほどの準備をしましょうね。

危険な動物も出る可能性があります。野宿でもしようか、なんて思う人はいないでしょうね。

自宅からすぐに行ける範囲にあれば、数時間、もしくは一日かけての森林浴をかねたハイキングとなります。

少なくとも1泊、2泊、3泊以上と宿泊し、食事や服装を事前に準備、計画して行くコースもあります。

また、世界の宝、人類の遺産なので、環境ルールを守りましょう。

みんなで大切に保存、守っていくというのが世界遺産の趣旨です。

熊野三山の起源

先ず、熊野三山とは、ご存知のように、新宮市の熊野速玉大社、田辺市の熊野本宮大社、

そして那智勝浦町の熊野那智大社の3つです。

熊野本宮大社の起源

紀元前33年に、3本の川の中州の聖地、大斎原(おおゆのはら)に社殿が建てられたとされています。

家津美御子大神(スサノオノミコト)を祭っていて古代本宮の地に神が降臨したと伝えられている

としています。

>熊野本宮大社

熊野速玉大社の起源

熊野の神々は、平安時代の12世紀の文書「熊野権現御垂迹縁起(くまのごんげんごすいじゃくえんぎ)」

によりますと、神代の頃初めに神倉山のゴトビキ岩に降臨され、その後、128年(景行天皇五十八年)、

現在の社地に真新しい宮を造営し「新宮」と号しました、ということです。

熊野速玉大社

熊野那智大社の起源

神日本磐余彦命(かんやまといわれびこのみこと)の東征(これは神武天皇という架空の初代天皇が行った

東征のことです)の途中、一行は丹敷浦(にしきうら)(現在の那智の浜)に上陸することになりました。

紀元前662年のことです。

熊野那智大社

そこで光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、那智の滝に行きつき、滝を大己貴神

(おおなむちのかみ)の現れたる御神体としてお祀りされました。
那智の滝

大己貴神(おおなむちのかみ)の別名として大国様(だいこくさま)があります。

なんでも願いをかなえてくれそうな神様です。

簡単に、熊野三山の由緒を主にホームページから抜粋しました。

どれを取っても「古事記」を代表とするようなフィクションの世界です。

読むとよけいに分かりづらくなるかもしれませんが、公式の内容です。

よろしければ、どうぞ熊野三山のそれぞれのホームページの冒頭をご覧ください。

熊野那智大社 那智の滝 無料駐車場那智山(熊野那智大社/青岸渡寺)・那智の滝・飛龍神社の見どころや実質的に駐車料金不要の方法、大門坂の無料駐車場(100台分)から参拝道でのアクセス方法の解説。...
熊野速玉大社と無料駐車場熊野速玉大社には参拝者の無料駐車場があります。まず舗装された境内にある無料駐車場は約30台収容の無料駐車場があり、神社の関係者によりしっかりと管理されています。...

https://countryhouse-ugui.com/kumanokodou/nachinotaki/

八百万の神

日本には八百万の神(やおよろずのかみ)という言葉があります。

宗教の難しい定義とは無関係に、この言葉を聞いた日本人は、すぐ何のことか理解できるのでは

ないでしょうか。あらゆる自然と自然現象を神とするという、多神教とでも言いましょうか。

山、森、木、川、滝、岩、等を神として、しめ縄と紙垂(しで)で、それらを囲い神聖な場所とします。

自然信仰という宗教です。

そこに加え、6世紀に仏教が輸入され、長い間、神道と仏教が共存していました。

神様がいくつあっても不思議と感じない、また、全く違った宗教という仏教が入ってきても喧嘩する

ことなく平和に共存していたという、不思議な国が日本です。

日本の古代と言われる奈良時代(710年から794年)と平安時代(794年から1185年)には、熊野で、仏教、

密教、修験道が盛んになり、神と仏は同一とされました。

特に熊野三山が有名となったのは平安時代の末期です。

立役者は上皇、法皇(出家した上皇)と貴族です。

この時期、多くの上皇が「蟻の熊野詣(ありのくまのもうで)」と言われているほど、多くの人が列をなし、

聖地を詣でました。

「蟻の熊野詣」とは、熊野参詣者の列が、多数の蟻が一列となって進むごとく、多数の人々が

ぞろぞろと歩いた様子を示します。
蟻の熊野詣

厳しい峡谷、原生林の中を、宗教の信条を固く信じて、蟻のごとく歩き続けていたということです。

あまりにその道程が困難なので、ガイドの役目を果たしたのは、その行程、地域に慣れた修験僧

だったそうです。紀伊半島で、過酷な環境の中で修業をしていた修験僧の役割は大きいです。

この時に最も多く使用されたコースが中辺路(なかへち)です。

そして、特に上皇、法皇、女院(にょいん)による御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)という、熊野詣が

盛んに行われました。

以下、詣でた数の多い順序に並べます。

後白河上皇(1127年から1192年)は1160年を最初として、1191年まで33回も行ってます。

その次に多いのが、後鳥羽上皇(1180年から1239年)で、1198年を最初とし、1221年までの28回です。

鳥羽上皇(1103年から1156年)で、1124年の初回から1153年までの23回です。

白河法皇(1053年から1129年)の12回が続きます。

熊野詣

鎌倉幕府ができたのは、1185年ですから、鎌倉時代となっても熊野では京都から貴族、皇族が足繫く、

通っていたようです。

以上の4人の上皇の詣でた回数を足しますと、100回近くとなります。

熊野詣が、ほとんど終焉に向かっていったのは、1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の

北条義時を討伐しようとして敗れた時からです。

後鳥羽上皇の後は、後嵯峨法皇が2回、亀山上皇が1回だけ詣でているだけです。

鎌倉時代は1185年から1333年ですから、熊野詣もここで、ほぼ休止したということです。

承久の乱とは、貴族政権を率いる後鳥羽上皇と鎌倉幕府の武士の間での対立抗争でした。

京都の貴族政権と鎌倉の武家政権の、初めての戦いでした。

敗けた後鳥羽上皇は隠岐島(島根県)へ流され、18年後の1239年に60歳で、島で亡くなっています。

本地垂迹(ほんちすいじゃく)

平安時代の末期、仏教が興隆し、浄土信仰の信心が深まりました。

その結果、神道の八百万の神々は、様々な仏が化身として現れた権現(ごんげん)であるとすると

考えられました。これを本地垂迹(ほんじすいじゃく)といい、神仏習合(神道と仏教がひとつとなった)

のひとつです。(本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹(あと)を垂れるという意味で、

神仏が現れること)それ故、熊野本宮は阿弥陀如来の西方極楽浄土、新宮は薬師如来の東方浄瑠璃浄土、

那智は千手観音の南方補陀楽(ふだらく)浄土となりました。

その近くの高野山、吉野、大峯も熊野の浄土として忘れてはならない、大きな役割を担っていました。

つまり、熊野の浄土に詣でて、帰ってくるということは、浄土から帰還したことなので、一度死んで

生き返ったということを意味していたのでした。

その行程が信仰行為であり、「熊野に詣でる」ということは、あの世に往き、生まれ変わって現世へ

戻ってくという、よみがえりのプロセスということだったのです。

「よみがえりの地、熊野」と言われている理由です。

熊野の神々は、浄不浄、老若男女、身分の差もなく、全ての人々を受け入れました。

貴賤、職業、男女を問わず、皇族、貴族、武士、農民というような、あらゆる人たちが参詣していました。

信者、不信者は関係なく、神と仏、生と死が混沌として存在する「熊野」です。

日本人の精神性の原点、原風景ではないでしょうか。

こうなると、「蟻の熊野詣」の意味、京都と熊野を往復1か月もかけて814人もが、命がけで旅立った

人達の意味がなんとなく分かるような気がしませんか。

また、心身をきれいにするために、お参りする前に、冷たい川や海で体を清浄にしたという荒行も普通に

あったそうです。

その後の鎌倉時代には一代表として、「時宗(じしゅう)」という仏教を始めた一遍(いっぺん)がいます。

1274年に熊野に参詣し,本宮の社殿こもって,悟りを開いたといわれてます。

時宗は「南無阿弥陀仏」を唱えることにより信仰、不信仰に関係なく「極楽浄土に行ける」というものです。

全国を行脚(あんぎゃ)し、多くの人々の心に救いを与えました。

沿道でもらった救い、希望の喜びのあまり人々が踊りだし「踊り念仏(おどりねんぶつ)」となりました。

これが、今でも夏のお祭り行事となっている、盆踊りの始まりだそうですよ。

盆踊り

https://countryhouse-ugui.com/kini/

牟婁郡と熊野とは?

ふたつとも、その名の通りの地名ですね。

和歌山県にある東牟婁郡と西牟婁郡、そして三重県にある北牟婁郡と南牟婁郡の、4つの牟婁郡です。

これは明治時代、1871年の廃藩置県以降で、こういう住所となりました。

現在使われている、住所のそのままの名前です。

明治の4年(1871年)は、江戸幕府の武家政権による統治だった近世が終り、

1853年のペルーの黒船来航以降のー日本が近代となった時期のことです。

この二つの地域の名前には、どういう関係があるのでしょうか。

古代(奈良時代始まりの710年から平安時代終わりの1185年)という古い時代、紀伊半島南部は

紀伊国牟婁郡の同じ地域を熊野国といいました。

答えは、牟婁郡と熊野は一致します。

古い時代、紀伊半島の南部地域一帯が牟婁郡と熊野国だったのです。

それ故、この二つには、似通った意味が込められていたようです。

そして、都が平安京(京都市)だったので、はるかかなたの原生林のような地域は、人々にとって、

畏れ多く、神秘性があり、かつ、生死を超えた救いがある、というような信仰の的となっていたようです。

熊野の「熊」という言葉にどういう意味があったのか不明です。

・神のいる所
・樹木が鬱蒼としている所
・神が隠れる所
・死者の霊魂が隠れる所
・辺境の地(奈良、京都から見て)

古代の日本人にとって、言葉で表せない、生死を超えて救いが用意されているであろうと思うような対象、

はるか彼方の浄土の場所が熊野だったのでしょう。

一方、牟婁という言葉は「室」から来ており、

・一番奥のいきづまりの部屋
・もしくは周りを囲まれた所

というようなことを指すようです。都のあった奈良や京都から見ると、奥にあるのが、牟婁です。

明治時代まで、紀伊半島の南部の広大な地域は、牟婁と呼ばれました。

神道と仏教

ここから突然、神道と仏教の信仰の話となります。 

なんとも複雑になるかもしれませんが、紀南(和歌山県と三重県南部)と直接結びつく大きな接点が、

ここにあります。

紀南とは、牟婁郡でいうと、東と西、南の部分です。

日本に始めて仏教が入ってきたのは不明らしく、538年、百済(くだら)からとされ、6世紀前半です。

私は学校で536年と習いましたね。平安時代になる前の時代です。

この6世紀には日本では既に古来からの神への信奉、日本神道がありました。

通常は水と油というほどの異なる、仏教と神道の二つの概念がそれ以来、溶けあい、

融合され神仏習合という宗教を日本人は持ち続けてきました。

神と仏は同じなのです。

木々、岩、川、滝と言った自然、自然現象に神が存在し、神が仏や菩薩の仮の姿となり現われたとし

(「熊野権現」くまのごんげん)、それを信仰するという神仏習合の環境の中で私たちは育ちました。

「権(ごん)」とは、「仮の、臨時の」という意味です。

神仏習合は日本人の精神性に思っている以上に、深く根ざしています。

この神と仏が熊野権現として、深山幽谷(しんざんゆうこく)の熊野にあると信じて疑わず、

救いと現世利益(げんぜりやく)を求めて、言い換えると、生きながらえて、

この世で幸せになりたいと願う信仰深い人々の「熊野三山」(くまのさんざん)への

「熊野詣」(くまのもうで)が始まります。

という訳で、やっと「熊野古道」にたどり着きました。

高野坂(こうやざか・こやのさか)

高野坂登り口無料駐車場

住所 新宮市新宮2327

   3-4台位

   トイレ有り

高森展望所 駐車場

住所 新宮市新宮2320

   午前7時より午後7時まで

   7台位

新宮市の情報を見ると「迂回路」という名前で示され、高野坂に入れるようですが、鬱蒼とした様子です。未確認です。

自動車で広角から訪問いたしました。

新宮警察署の裏、国道42号線から県道231号線に入ると「世界遺産 熊野古道 高野坂 300m」という大きな看板があります。

そこを指示通りに曲がります。

高野坂案内図

先に進むと、民家が並ぶ辺りから、狭い道がもっと狭くなります。

小型タイプの車のみ通行できるような狭さです。

どうぞ運転には十分気を付けてください。

高野坂登り口無料駐車場 広角(ひろつの)側

駐車場にはトイレがありますが、ここから約1.5キロ、1時間弱の道のりで、三輪崎までないのでご注意を。

トイレ

王子ヶ浜への小道

トイレの先をさらに行くと王子ヶ浜に出る小道(階段)が左側にあります

紀勢本線のガードの下、逆川(さかさがわ)に沿って歩くと王子ヶ浜となります。

線路を横断することなく、王子ヶ浜に行ける箇所です。

高野坂
高野坂
高野坂

高野坂 無料駐車場

2024年の2月某日の早朝、朝7時頃に高森駐車場がオープンしたばかりの時間帯で42号線を通りました。

すると、周辺の草木が、きれいに伐採されていたので、利用してみることにしました。

高森展望所 無料駐車場入り口高森展望所 無料駐車場

駐車場から海が少々見えました。これから夏にかけて、葉が茂り見えなくなるのかも・・です。

高森展望所 無料駐車場

迂回路 高野坂入口

「迂回路」とされている高野坂への入り口も、草木が伐採され、簡単に歩行できるようになってました。

このアクセスについては未確認なので、自己責任で、ご利用ください。

迂回路 高野坂入口迂回路 高野坂入口

今回だけの例外でしょうか。

これから気候が暖かくなりにつれ、鬱蒼とした森になっていくのではないかと懸念しますが、高野坂のアプローチ、7分位の徒歩で海岸側の通路に出ましたので、ご報告します。

大雨が止んだ直後だったので、森の中のマイナスイオンをふんだんに浴びました。

最高の爽快感を伴った、快適なウォーキングでした。

同時に、葉っぱや伐採した枝が地面に残っていて、足元が滑りそうな地面を一歩ずつ慎重に歩きました。

迂回路 高野坂入口 迂回路 高野坂入口 迂回路 高野坂入口

ゆっくりと歩いて、本来の海沿いの高野坂のコースに出ました。

本来のコースに合流する箇所で大きな松(?)の木が目印のようにあり、幹に黄色のリボンが巻かれているので、よく分かるかと。

高野坂入口 合流する箇所

この松(?)の木のある個所は、広角側の駐車場からの入り口から、3分ほど歩行したばかりの地点なので、本来の高野坂の良さを損なうことはないです。

高野坂 高野坂 高野坂 高野坂 高野坂

この迂回路コースを年中コンスタントに使えるのであれば、大きい乗用車でも広い駐車場で便利ですね。
(トイレが、広角側の無料駐車場の1か所のみなので、くれぐれも要注意です。)

新宮市の熊野古道 6ヶ所

①熊野速玉大社
②神倉神社
③阿須賀神社(阿須賀王子跡)
④浜王子(王子神社)
⑤高野坂
⑥佐野王子跡 

以上6か所が、熊野川、熊野灘に面してあります。

熊野古道地図

高野坂は特に、熊野古道の、昔の面影が残る中辺路を歩くという有意義なコースです。

こんな近くで、参詣道を気楽、簡単に経験できるという意味です。

⑥佐野王子跡はこの地図上から少し離れていて、最後に訪問します。

熊野詣の人々は、本宮から熊野川を船で下り、熊野三山の一社「熊野速玉大社」に詣でた。

参拝のあと徐福の宮もある「阿須賀神社」を経て「浜王子」に至るのが古代・中世の参詣ルートである。

近世には、新宮城下を今の国道四十二号沿いに南下し、広角から御手洗に至った。

広角(逆川さかさがわ)より、御手洗の海辺の台地を超えるのがこの「高野坂」で、石仏や石畳、休憩所や展望台などがあり、三輪崎(塩屋川しおやがわ)に至る延長約1.5キロメートルほどの短い区間であるが、往時の面影をよく残している。

熊野古道案内

広角の逆川(さかわがわ)から、高野坂に入るのが古式豊かなルートということでしょうか。

高野坂入口
高野坂入口

高野坂入口

高野坂は、とても美しい峠道です。

新宮市の広角から三輪崎までの約1.5キロメートルを高度50メートルの高台を歩く、参詣道です。

砂利浜の心地よい波の音と海岸の景観が見え隠れし、念仏供養の石碑や石の地蔵、石畳が残り、聖護院宮の休憩所跡など、おもしろい史跡も、道中あります。

峠に入って間もなく、御手洗(みたらい)の念仏碑、三体があり、江戸時代の中頃からのものです。

石仏

真ん中の地蔵様は、1672年に伊勢の人が那智山と新宮で100日念仏を唱えたことを記念して建設しました。

両側の石碑2体には読みづらいですが「南無阿弥陀仏」とあります。

これも、それぞれ大阪、滋賀出身の人の念仏記念だそうです。

ここからの展望は格別で、小鳥の賑やかなさえずりとともに、砂利浜の特有な軽やかな音がします。

当日は、あいにく、木々がちょっと大きく成長していたので、海は一部だけ見えましたが、とても爽快でした。

高野坂

この御手洗の念仏碑、手を洗うという意味ですね。

神武天皇が手を洗った、もしくは三つの盥(たらい)のような岩のくぼみとなっているので、この名前になっているという説もあるのだとか。

熊野詣のお参りの際、塩水で身を清めた禊(みそぎ)場所とするのが妥当だそうですよ。

道中、熊野古道の山の中、ワイルドというべきー森林が、そのまま残っています。

その中を最低限の遊歩道が、よく手入れされて保存されています。

歩く時は注意してください。

苔むしている岩も沢山あり、滑ります。

枯葉も沢山落ちているので、ここでも滑ります。

海沿いに、山の中を歩くという、不思議な経験をしました。

忘れていた清流が音を作りながら流れ、森とはこういうものだったかもしれないという静寂さを思い出しました。

遠い時のかなたに忘れていた、思い出がよみがえってくるような場所でした。

写真をできるだけ掲載いたします。

どうぞお楽しみください。

高野坂
高野坂
高野坂
高野坂
高野坂
高野坂

寿門山五輪塔

寿門山五輪塔といのが正当な名前でしょうか。

広角側からの通り道ですと、左側に「五輪塔」と小さく道標が出てますので、お見逃しなく。

寿門山五輪塔の入り口
寿門山五輪塔

五輪塔は、寿門山(じゅもんさん)に、石組みの壇を築いた五輪塔だそうです。

寛永5年(1628年)に建てられ「心鏡房海宝大徳」と名乗った僧侶のものです。

この辺り、ウバメガシ越しに海の風景が見えます。

鬱蒼とした竹林

写真だけ。
貴重な経験となりました。

竹林
竹林

金光稲荷神社とおな神の森

金光稲荷神社の大きな森は「おな神の森」といいます。

江戸時代からこの森をそう呼ぶようになったそうですよ。

金光稲荷神社

また、神武天皇が景色を眺めたとされ、丹敷戸畔(にしきとべ)の塚(つか)、つまり丹敷戸畔という女性酋長の塚があるそうです。

どこにあるか不明で、分かりませんでした。

丹敷戸畔(にしきとべ)とは:

『日本書紀』における神武天皇の東征の折の記述に登場する人物です。

ご存知のように神話に出てくる女性酋長ですが、その伝承地は五ヶ所にもあるといいます。

おな神の森はそのうちの一つ、塚があるということです。

聖護院宮の休憩所跡

おな神の森の西側にある本山派山伏(天台宗系)を率いたという京都の聖護院宮が、大峯山から熊野三山を巡った時に休憩した場所があるのだそうです。

今は石垣の形だけが残り、どこだったかは不明です。

この辺りではないかと写真だけ。不明です。

聖護院宮の休憩所跡

野良ねこちゃん2匹

野良猫街道、まっしぐらの2匹。

全く相手にされませんでした。

野良猫

鯨山見跡(くじらやまみあと)

道標だけの写真です。

道標

明治末まで使われていた捕鯨見番所(日本遺産)。

弁慶の力石

ちょっと広くなった場所にある、大きな石です。

こんなでっかい石、誰がここに持ってきて、そして、どうやって動かせたのか不思議ですね。

弁慶の力石

石畳

石畳が見えると、もう終わりの始まりです。

いよいよ高野坂の終わりが近いです。

高野坂の石畳

草が生えたり土が流れるのを防ぐ、昔の舗装道路です。

山水による古道の土の流出を止めるため、斜めに溝をつける「洗いごし」と呼ばれる昔の排水方法も残っています。

洗いごし

これは、途中何か所かに複数ありました。

浜王子跡と佐野王子跡の道標

広角から始まり高野坂を経由して、佐野王子跡に行くという道標です。

浜王子は、もちろん反対方向にあります。

道標

最後にのどかな畑に出ました。

農作業をされているご婦人が何人かいて、そこを厚かましく通らさせて頂きました。

高野坂

県道233号線です。

道標

新道道標

新道道標

石のローラーを利用した道標です。

「左新街道」と刻まれています。

明治17年(1884年)に高野坂に代わって現在の国道42号に沿った新道ができた時の道標です。

明治時代にはこの付近が古道と新道の交差点でした。

かなり古いですね。

佐野王子跡

高野坂の後、さらに佐野王子跡に行きました。

佐野王子跡

佐野のショッピングセンターがある敷地近く、42号線沿いにあります。
石碑のみ残っています。

通常は、42号線を走らせても、気づかないことが多いのではないでしょうか。

当方も長い間知りませんでした。

佐野王子跡

佐野王子跡:

京都から熊野へと向かう熊野参詣道に祀られた熊野九十九王子の一つ。

承元(じょうげん)四年(1210年)五月四日、後鳥羽上皇の夫人、修明門院(しゅうめいもんいん)が熊野参詣した時、ここで昼休みしたという記録があります。

この参詣にお供した藤原頼資(ふじわらよりすけ)は、阿須賀、高蔵、佐野、一乃野の王子社を日記に記しており、この頃、新宮~那智間に四王子社があったことが分かります。

近世には熊野那智大社の末社となり「紀伊続風土記(きいぞくふどき)」には「若一王子の森(にゃくいちおうじのもり)」と呼ばれたと書かれています。

なお、熊野参詣の折は、佐野の浜で拾った小石を衣の袖に入れ、熊野那智大社に奉納する習慣があったと伝えられています。

補陀洛山寺(ふだらくさんじ)

補陀洛山寺

補陀洛山寺(ふだらくさんじ)

住所  和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮348

電話番号 0735-52-2523

拝観時間 8:30~16:00

駐車場  有(30台~40台)

拝観料  無料

補陀洛(ふだらく)というのはサンスクリット語の「ポータラカ」の音訳ということだそうで、なるほど、
とても変わった名前は、そういう理由だったのですね。

ポータラカとは、古代インドの南の海上にあるとされた観音菩薩の浄土を意味します。

チベットの中心地ラサのマルポリの丘の上の宮殿、ポタラ宮も、このポータラカとされてます。

ポタラ宮

日本でも南の海上にこの補陀洛浄土(観音菩薩の浄土)があるとされ、それ故、そこへ渡海(とかい)するという、捨身(しゃしん)という名の、一度出航したら二度と生きて帰ってこないという荒行をしていました。

現在、寺院は海から300メートルほど離れていますが、古い時代には、海から、たった20メートルから30メートル位しか離れておらず、海辺の波打ち際には鳥居がありました。

ここから、船に乗って、観音菩薩の浄土に向かおうとするのは、信仰を持った僧には自然の成り行きだったのでしょうか。

そうであったとしても、お坊さんも人により個性があり、さまざまな考えをお持ちだったことだろうと。
それとも、悟りを持ったお坊さんは、生死を超越するということでしょうか。

残念ながら、お坊さんの、史実としての、お気持ちを記した記録はないようですね。
地元で、伝わっているものがあるかもしれません。
あるのか、ないのかは、私が知らないだけかもしれません。
ここでの記載内容も、他の項目と同じく私の独断と偏見に基づいています。

この世界遺産(1994年に登録)は、那智駅、「道の駅なち」から至近距離にあります。

那智駅道の駅なち

那智海水浴場のブルービーチも近く、観光客、地元民のつどう場所という、にぎやかな場所に近いです。

しかしながら、それとは裏腹に、あたかも誰にも気づかれたくないように佇んでいるのが、この寺社です。

案内図

補陀落山寺と青岸渡寺の深い関係

この二つの寺院の木造建築の外観ですが、似てると思いませんか。

補陀洛山寺青岸渡寺

青岸渡寺は、天正18年(1590)豊臣秀吉の再建です。

補陀洛山寺は、文化5年(1808年)の台風により大伽藍の全てを滅失し、その後、1990年に、室町様式(室町時代は1336年から1568年)の高床式四方流宝形型の本堂が再建されたということです。

建物に塗装がされていない、こういう落ち着きのある静寂さは、個人的には好みです。

こういう静寂さと素朴さに、古い時代の日本人の奥ゆかしさが、ひしひしと伝わってくるような気がします。

寺院やお社の輝くような朱の色を、あまり好まない人は結構います。

あなたには、どういう感じがしますか。

また、二つの寺院は、同じ開山です。

補陀洛山寺の看板

仁徳天皇の時代(4世紀)にインドから渡来した裸形上人(らぎょうしょうにん)により開かれたとされてます。

青岸渡寺も、同じく、「仁徳帝の御代(313~399)にインドの僧、裸形上人によって開基され上人が熊野浦に漂着して那智の滝にたどり着き、きびしい修行を重ねるうちに、観世音を感得した」とホームページにあるので、ここに引用いたします。

那智の海岸

廃仏毀釈を逃れるために

明治時代に廃仏毀釈となった時、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたということです。

熊野那智大社では本堂の如意輪堂は有名な西国三十三所の第一番札所であったため、破却は免れ、仏像、仏具は補陀洛山寺に移されたそうです。

両寺院の深い関係がよく分かりますね。

補陀洛山寺も熊野三山です。

両方とも天台宗です。

熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)

同じ境内の、すぐ隣に熊野三所大神社が、あります。

熊野三所大神社

この名前、熊野三所大神社を、「くまのさんしょおおみわやしろ」と、即時に、読める人は、いますでしょうか。

「くまのさんしょだいじんじゃ」としか読めないですよね。

浜の宮王子社跡

九十九王子のひとつであった浜の宮王子社跡に建ち、古くは浜の宮王子社、もしくは渚の宮とも呼ばれました。

王子

王子とは簡単にいって、12世紀、13世紀頃に、熊野古道沿いに作られた小さな神社のようなもので、熊野参詣の先達(せんだつ)をした修験者(しゅげんじゃ)もしくは山伏(やまぶし)が、参詣者たちを守護、守るために建てたものです。

王子

99か所あったのではなく、それほど沢山あったという意味で、実際には80余か所位だったそうです。

その目的理由から「中辺路」と「伊勢路」沿いだけにありました。

こういう説明には、諸説あるので、「実際にはどうなんでしょうか。」ということになりますね。
休憩所みたいなもの、という、思い切りの良い表現もあるようですが、これですと分かりやすいです。
参詣者が一途に歩き続けるのでなく、目的地に到達するまでに少しずつ休み、体力を蓄えるという、そういう目的があったとすれば、合理的です。

祭神は熊野三所権現です。

当社案内図

熊野三所権現とは、

①本宮の神の家津御子大神(けつみみこのおおかみ、家都美御子大神) 
②那智の神の夫須美大神(ふすみのおおかみ、熊野結大神)
③そして、新宮の速玉大神(はやたまのおおかみ)

それ故、古来、熊野三山もしくは熊野三所権現という名称でいわれるそうですよ。

熊野三所権現

中辺路の分岐点

敷地の角、43号線に沿った場所に「振分石(ふりわけいし)」という石柱があります。
古いので、黒くなっている石柱が建ってます。

熊野古道の中辺路・大辺路・伊勢路の接点、分岐点を示し、万治元年(1658年)に建てられました。
これは300年毎に新しくなっていたそうです。

浜の宮王子は、重要な要所にあったということが分かります。

また、この王子で、那智山への参拝前に、潮垢離(しおごり)という、心と身体を清めるということをしていました。

補陀洛山寺は、こういう浜の宮王子の神宮寺(神社に付属するお寺)もしくは守護寺といえます。

いうまでもなく、熊野古道の一部です。

渚の森

今でも境内には大きな楠があります。
1808年に、大伽藍を破壊する台風があったので、その時に、森のほとんどが、消滅したのかもしれませんね。

浜の宮の大楠
浜の宮の大楠
浜の宮の大楠

浜の宮の大楠 推定樹齢800年

補陀洛渡海(ふだらくとかい)

歴代のお寺の住職(もしくは上人)は、60歳、61歳になると、南の海の彼方にあるとされる観音浄土の補陀落浄土を目指し、30日分の食料と水を積んで船出して、補陀落渡海という宗教儀礼をしました。

修行を重ねた、徳が高いとされる住職や僧侶が行いましたが、若い人では、戦国時代、世を憂いて18歳で渡海した人もいるそうです。普通の人も、渡海したのですね。

観音菩薩浄土では、衆生の願いが叶い、救われるとされていました。
生きながらの仏道の修行ということだそうですー

生きた人を小さな船の上に作った箱のような室内に閉じ込め、2度と生きて帰れない状態で、荒海に放り出す話を聞きたくないとする人もいるでしょう。

イメージ図

数十年前、私も経験ありますが、お寺のお坊さんは、その地域の人々に慕われてました。人格もあり、家庭の心配事の相談等、普通にしていました。今とは隔世の感があります。それを思い出します。

心やさしく、人々の幸せを思って、自らの命を海にささげた住職さんも多数いたのではと想像します。そのお坊さん達を思って、この記事を書きます。

気楽に読んでいただけたら嬉しいです。

渡海の方法

毎回、同じ方法を採ったという訳ではありませんが、その大体の方法をまとめます。

時節は11月、北風の吹く時期が選ばれました。

わずか5-6メートル程の小さい船は(お寺の境内に1993年製作のレプリカ船があります。)別名、棺桶と呼ばれ、渡海僧は、その小さな室内に入ります。

渡海の船

同時に、そこから脱出できないよう板がはめられ、釘が打たれました。

時には船底まで釘を打ち、脱出できないのを確実にしたそうです。

内部は、棺桶という別名を持つほどの狭さと暗闇です。

そして、浜辺から、二隻の船が渡海船を沖へと引いていき、帆立島で、渡海船の帆を揚げます。

綱切島では、引いていた綱を切りました。

このふたつの島は、那智の浜の近くにあり、誰が見ていたかは不明ですが、誰もがそれを見ていたであろうということのようです。

渡海僧は、船が沈むまで、お経を唱えていました。

小さな船は釘打ちされているので、船内の穴から海水が入ってくるのでは。
船が沈むのは時間の問題だったのではないでしょうか。

海水も低温で、船が沈む前に僧の心臓が止まるのが先だったかもしれません。

冬の海

境内にある石碑(補陀洛渡海記念碑)に、平安前期の868年の慶龍(けいりゅう)上人から江戸中期の1722年の宥照(ゆうしょう)上人まで25人が観音浄土を目指して船出をしたと刻まれています。
 
この那智の海辺だけでなく、日本の各地(茨城県の那珂湊(なかみなと)、高知県の足摺岬、室戸岬、栃木県日光、山形県月山など)で40件以上の補陀洛渡海がありました。(記録されていない数もいれると60件はあるでしょうか。)

その半数以上は那智で実行されていたようです。

渡航内容の変化

平安時代から鎌倉時代までは、本気で、純粋に、補陀洛往生を求めて渡海したようです。

観世音菩薩様の前に行きたいと切望するのは、至極、純粋な気持ちだったのかもしれません。

その後の室町時代になりますと、儀式化したようです。

江戸時代には、それが変化し、生者の生きながらの渡海は行われず、住職が亡くなった場合、あたかも生きているごとく渡海の方法で水葬を行うようになったそうです。

そのきっかけとなった住職が金光坊(こんこうぼう)です。

金光坊(こんこうぼう)

戦国時代の終期、1565年、金光坊(こんこうぼう)という住職、61歳の時、船出しました。

しかしながら途中で命が惜しくなり、屋形を破り、船から逃げだしました。

役人、町人はこれを認めることができず、金光坊を海に突き落として殺してしまいます。

この事件がきっかけとなり、生者の補陀落渡海はなくなったそうです。

現在、那智の浜近くに金光坊島(こんこぶとう)と呼ばれる岩礁があります。

この住職さんは他の僧とちがって、上人(しょうにん)とは呼ばれていませんね。

高僧でも、死にたくない場合があると人々は初めて気づき、犠牲者を出すことに躊躇したということでしょうか。

有名な人を、さらに2名上げます。

平維盛(たいらのこれもり)

「平家物語」によると、平維盛が熊野詣での後、入水(じゅすい)したということになってます。

平維盛は、平清盛の孫で、1180年に源氏追討の総大将となりましたが、1183年に源義仲の軍に敗れ都落ちし、大敗します。

翌年(1184年)、高野山で出家、那智で入水したとされてます。

しかしながら史実かどうかは不明です。

その後、色川に住んでいたという伝説もあります。

裏山に供養塔があるとのことなので、興味のある方は、どうぞ、行ってみてください。
お足元には十分気を付けて歩いてくださいね。

日秀上人(にっしゅうしょうにん)

もうひとつの例として、16世紀の渡海僧、日秀上人(にっしゅうしょうにん)があります。

黒潮に逆行して西へ流され沖縄へ漂着したそうです。

沖縄で熊野信仰を広めたとされます。

少数ですけど、こういう人が、いたのですね。

補陀洛山寺のご本尊

補陀洛山寺

ご本尊

最後に、三貌十一面千手千眼観音(さんみゃくじゅういちめんせんじゅせんげんかんのん)を、ご紹介します。

172cmの高さがあり、平安時代の作です。国の重要文化財に指定されています。

繰り返しになりますが、本地垂迹(ほんちすいじゃく)とは、「神が人々を浄土に導くために、仏が仮の姿になって現れたもの」を意味します。

「本地」とは仏です。本地垂迹とは「仏が神となって現れる」ということです。

「権」は、「仮に」という意味で、権現は「仮に」「現れる」という意味です。それで仮に現れた神は「権現」です。

そうすると、熊野三所権現は以下のようになります。

①本宮の神の家津御子大神(けつみみこのおおかみ、家都美御子大神) 阿弥陀如来
②那智の神の夫須美大神(ふすみのおおかみ、熊野結大神)      千手観音
③そして、新宮の速玉大神(はやたまのおおかみ)          薬師如来

仏教では、阿弥陀如来は西方極楽浄土、千手観音は南方補陀落浄土、薬師如来は東方浄瑠璃浄土とされます。

熊野が浄土の地といわれる所以(ゆえん)でもあり、ご本尊が千手観音となります。

同時に南方補陀洛浄土となるのです。

浄土の地イメージ

正直いって、なんだか煩雑この上なく、訳が分からなくなりますね。
それはさておき、どうぞ遊びにきてくださいね。
どの仏様も神様も、あなたをお待ちしてます。
楽しい時間を過ごしませんか。