徐福 ~不老不死伝説とは

徐福

徐福公園

徐福公園がJR紀勢本線、新宮駅から目と鼻の先(歩いて2分位)にあります。
新宮駅の真ん前にあります。

中国式の華やかな門が大きな目印となっているので、決して迷うことはありません。
駐車場も完備され、公園訪問には最初の1時間が無料となっています。
徐福を前面に出す新宮市の心意気が出ている公園です。

住所   和歌山県新宮市徐福1-4-24
電話   0735-21-7672
開園   8:30~17:00  (売店のみ閉店12:30~13:30)

徐福公園

1994年(平成6年)に徐福の墓、色彩豊かな中国風楼門を含んで、新しくオープンしました。
新宮市の観光地となっています。

以下敬称略です。

徐福東渡(じょふくとうと)という言葉があり、その意味は秦の始皇帝の時代、徐福が3000人の子どもと東へ船出し、日本に到着して王となった、という伝説のことです。

神武東征と言葉が似ているので、興味深いですね。
徐福は神武天皇という人もいるのだそうですよ。

確かに、中国で徐福は実在していたと科学的に証明されています。

しかし、日本では証明されておらず、伝説とされており、学問として成立していません。

そもそも、日本にまでやってきたのかも不明です。

さらに、仮に日本にやってきたとしても、一体どこに上陸し、どういう人だったのかは謎です。

日本に上陸し住み着いたとされている場所が20か所以上もあり、伝説の内容も場所により異なります。

徐福ゆかりの3地点

新宮駅近く、徐福にゆかりのある、徐福公園をはじめ、阿須賀神社(世界遺産)徐福上陸地点の3点のご紹介をします。

それぞれ歩いても至近距離にありますので(たとえば公園の裏門から神社まで徒歩5-6分)、新宮の徐福の景勝地として3点を網羅するのも一方法かと。阿須賀神社はご存知の通り世界遺産です。

①徐福公園

徐福公園には、中心広場に、徐福の像、お墓、不老の池があります。

入ってすぐ左にある由緒版(1994年設置)は、始皇帝が徐福と出会ったという中国山東省の都市から送られたものです。

不老の池

徐福の7人の重臣を表す、7つの徳、「和、仁、慈、勇、財、調、壮」が御影石の柱に刻まれています。

不老の池

池には7匹の鯉が泳ぎ、北斗七星の形に石橋が渡されています。

その正面の花壇に不老長寿の7本の天台烏薬(てんだいうやく、くすのき科)があります。
(新宮市指定の天然記念物)

徐福の像

高さ1.9メートル、重量1.5トンの御影石。1997年(平成9年)建立。

徐福さんって、こういう顔だったのでしょうか。

徐福
徐福の墓

伝説によれば、徐福はこの地で亡くなったとされています。

ここに徐福の墓があるといのが中国での定説です。

徐福の墓

この墓碑は、紀州藩の初代藩主、徳川頼宣(よりのぶ)の命で儒臣(儒学をもって使える家来)の李梅渓(ばいけい)が揮毫したもの。

徳川頼信:家康からの期待も高く、幼少期から領地を持ち、領主としての資質がありました。若くして紀州藩主となり藩の整備に尽力、政策を打ち出しました。紀州を大きく発展させた紀州藩の名君です。

1736年(元文元年、げんぶん)6代紀州藩主宗直(むねなお)によって建立されました。

墓碑には「秦徐福之墓」と刻まれています。

7人の重臣は、徐福の墓、右側の「七塚の碑」に祀られています。

徐福公園売店

「不老不死」とまではいかなくとも活性酸素の除去に良いとされるお茶があります。
タンパク質、カルシウムを多く含みます。

チャイナドレスのレンタルができ、レンタサイクルもあります。

この徐福公園から、歩いて5-6分(裏門あり)もしくは車で2分ほど離れた場所に、世界遺産の阿須賀神社があります。

②阿須賀神社(あすかじんじゃ)

所在地 新宮市阿須賀1―2―25 

電話 0735‐22‐3986

営業時間 境内自由

定休日 無休 

駐車場・トイレ あり

2016年(平成28年)に世界遺産として、追加登録されました。

阿須賀神社

徐福が目指したかもしれない、標高約38mの蓬莱山。

阿須賀神社は、その南の麓にあります。

社伝によると紀元前423年の孝昭天皇の代の創建。

主祭神は、事解男神(ことさかおのかみ)で、熊野三山の神々も祀られています。

1163年(長寛元年)に書かれた古文書には、熊野権現が神倉山に降りた後、阿須賀へ移ったと記され、平安時代から「阿須賀王子」とされていました。

阿須賀神社

蓬莱山の経塚(きょうづか、経典を地中に納めた塚)からは、陶製経甕(きょうがめ)破片、経筒(きょうづつ、経典を納めて経塚に埋める円筒形容器)残片、銅銭や1362年(貞治元年)銘の銅板金具(どうばんかなぐ)が出土。

また、阿須賀神社の祭神を仏として表現した懸仏(かけぼとけ、鏡板に仏や神の像を刻んだり貼り付けたもの)と鏡像を発見。

阿須賀神社

室町時代には、古神宝類(こしんぽうるい、古く神社に奉納され、現在まで伝わっている宝物類)が阿須賀神社に奉納されており、国宝として京都国立博物館に保管されています。 

熊野信仰の重要な王子社であったということが分かります。

徐福の宮

境内、稲荷社の右側に建立されています。1985年(昭和60年)再建。

徐福の宮

徐福一行は新宮、熊野川の河口付近に上陸すると、蓬莱山(ほうらいさん)の麓に住み、村人に農耕をはじめ、漁法、捕鯨、造船、紙すきなどの技術を伝えたのだとか。

境内からは、戦後の発掘調査により、徐福の暮らしの跡かどうかは不明ですが、弥生時代の竪穴式住居趾や土器類などが出ています。

③徐福上陸の地

阿須賀神社より歩いて1分、熊野川沿いに、灯籠型の記念碑があります。

中国に実在した徐福

徐福東渡(じょふくとうと)

徐福東渡とは、「秦の始皇帝の時代、徐福が3000人の子どもと東へ船出し、日本に到着して王となった。」という伝説です。

これの根拠はどこにあるかといいますと、司馬遷の「史記」です。

以下に司馬遷と史記について少しだけ詳しくお話しさせていただきます。

司馬遷とは

司馬遷(紀元前145年もしくは135年 – 紀元前87年もしくは86年)は、中国、前漢時代(ぜんかん、紀元前206~8年、秦の滅亡後、項羽との争いに勝利した劉邦によって建てられ、長安が首都)の皇帝、武帝に太史令として仕えました。

太史令とは、天文、暦法、占星、祭祀をつかさどり、国家文書としての歴史記録の保管、整備を任務としていた役人です。

司馬遷は、かなり優秀な人物で、いわゆる偉人でした。
20歳位の若いころからの旅行、そして仕官後は、武帝に随行して巡遊し、前漢が支配下に置く中国のほぼ全土を歴訪しています。

彼は、旅先で土地の長老を訪ねて故事を聞き、太史令として各種史料にも精通し、過去にも思いを馳せるという人物でした。

特に父の司馬談は、史官として記録の整理をするだけではなく、記載、論評し、著書とする計画を持っていました。しかしながら、司馬談はその事業を終えることなく志半ばで亡くなり、息子の司馬遷に作業を継ぐように遺言いたしました。

このことも数ある理由の一つなのですが、司馬遷の「史記」は中国史の上で高い評価を得ています。

「史記」とは

史記とは、「二十四史」の一つで、正史の第一とされてます。

司馬遷自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)ですが、後世に「史記」と呼ばれるようになり、これが書名の「史記」となりました。130巻から成る大作です。

「二十四史」の中では「漢書」と並んで最高の評価を持ち、特に歴史的価値、文学的価値が最上に高く評価されています。

つまり、この「史書」に記載されている事柄は、必ずしも事実とはいい難くとも、徐福の時代より約100年後のことでもあり、その存在は事実であると考えられています。

「史記」に徐福が出現する箇所を簡単に説明すると

「史記」秦始皇本紀(ほんぎ)によると(B.C.219年)

徐福らが始皇帝に書状を出し、「海中に蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛洲(えんしゅう)の三神山(さんしんざん)があって、仙人が住んでいます。心身の汚れを払い男女の子供を私に与え、探しに行かせてください」と言った。そこで始皇帝は童子童女数千人を与え、徐福を船出させ、仙人を求めさせた。

ということが書かれています。

(三神山とは、中国の伝説上の神山、そこには仙人が住み、不老不死の神薬があると信じられた。)

「史記」淮南衡山列伝(わいなんこうざんれつでん)によると(B.C.124年)

徐福は、秦の始皇帝に、「東方の三神山に不老不死の霊薬がある」と報告をし、始皇帝の命を受け、3000人の童男童女と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種とともに、東方に船出し、平原広沢(広い平野と湿地)を得て、王となり戻らなかった。

とあります。

以上、2例の極めて簡略な説明のみとなっているのは、「史記」に記載される徐福を証明するのを趣旨としているからです。

中国では、徐福は「史記」のみならず、多くの歴史書、文献に登場しています。

中国でも日本と同じく、伝説で、秦の始皇帝との話は歴史的事実ではありませんでした。
しかしながら、1982年に中国の江蘇省連雲港市かん楡県で、徐福の故郷であるとの伝承をもつ徐福村(現徐阜村)が発見されることにより事態は大きく変化します。

それ故、中国では、今や、実在の人物、歴史上の人物として学術研究の対象となっています。
上記の徐福の故郷、および出航した港が伝承されているのです。

日本に徐福がやってきたという中国の記述は1200年後です

それは960年頃の「義楚六帖(ぎそろくじょう)」とされており、 日本から来た僧侶に聞いた話として、蓬莱山すなわち富士山に来たとのことです。残念ながら、徐福の時代から約1200年も後になるので歴史の資料にはならないですね。

そもそも、徐福の東渡は、紀元前210年ごろなので、卑弥呼の時代から400年以上前、古事記(712年)、日本書紀(720年)の時代からですと、900年以上前となります。

つまり、日本に文字がなかった時代だったので、文献として残るにしても、そもそも時代が古すぎるということになります。

また、日本には、徐福の墓が各地に沢山ありすぎます。
「あそこ」と、「ここも」と言われると、真実性が圧倒的に薄くなりませんか。
そういうふうに感じてしまうのですが、みなさんは、いかがでしょうか。

徐福 伝説とは?

ちょっと難しい話となります。

難しいというのは、あまり認知されていない話なので、知る人はあまりいない、ということです。

同時に、前段のストーリーと重複する内容となっています。

ご了承ください。

日本各地で

2200 年前に来日したかもしれない徐福 

来ていたとしても何の証拠も日本に残していないという徹底さ

その秘密はどこにあるのでしょうか?

答えを持っている人はいないようです。

新宮市の蓬莱山(ほうらいさん)の近くに、徐福が最初に日本の土を踏んだ地点とされる場所に、石碑が建ってます。

そして、この熊野で亡くなったとされているので、徐福公園には墓があります。

徐福の墓

墓碑は1736年(元文元年)、紀州藩の6代藩主宗直によって建立されました。

初代紀州藩主、徳川頼宣が建設を計画し、それからおよそ100年後、現在地に建てられたとのことです。

中国でもここに徐福の墓があることが定説になっています。

徐福が熊野に渡ったということが中国側の文献でいくつか見られます。

徐福は、ここに上陸し、熊野川河口にある蓬莱山(ほうらいさん)に住み、人々に農耕、漁法、捕鯨、造船、紙すき、焼き物、土木、医薬などの技術を伝えました。

そして、童男童女の子孫は熊野の各地域の長となったのだとか。

さらには、ご存知のように、新宮市だけでなく、徐福の東渡伝説は、日本各地で多数にあります。

ということで、もう少し、徐福と日本の関係を、ご紹介いたします。

学者により、人により、所感は異なります。

紀元前3世紀頃、日本に進んだ文化、文明をもたらした中国人が沢山いたであろうということについては、個人的には、大きな好感度を持っています。

以上2点の理由で、内容についての責任は一切持ちませんので、みなさんにご判断していただくことを期待し、ご了承いただきたいと存じます。

日本の縄文時代から弥生時代への変化

日本での縄文時代(1万2千年前~紀元前3世紀)と弥生時代(紀元前3世紀~紀元3世紀までの600年間)の違いとは、弥生時代とは稲作、金属器使用が始まった時期と学校で教わりました。

そこが縄文時代とは違うということを学生時代に、先生に叩き込まれたことを覚えている人は沢山いるのではないでしょうか。

お米銅鐸

ただし、弥生時代の始まりについても新説があります。
国立歴史民俗博物館による、水田耕作のはじまりは、紀元前10世紀後半です。
それで弥生時代の始まりは紀元前10世紀となります。
九州北部から、約800年かかって日本列島を東へと伝わっていったという説です。
水田稲作が九州北部から瀬戸内海西部地域まで到達するのに約200年、摂津、河内までだと300年、奈良盆地までだと400年、中部地方には500年、南関東には600~700年かかったと推定されています。

新しい事実が解明される毎に、歴史は塗り替えられていきます。

お米

狩猟、採集、土器、石器が中心の縄文時代(1万2千年前~紀元前3世紀)から、

縄文時代縄文人

稲作、木製の鋤、鍬、鉄器、青銅器が使われた弥生時代(紀元前3世紀~3世紀)へとなります。

農耕桑

日本人の主食である、お米と農耕に画期的な進歩をもたらした金属器の使用は、弥生時代初期、ちょうど徐福一行が日本に来航したとされる時期と重なります。

司馬遷の「史記」によりますと、徐福が船出したのは少なくとも2回、紀元前219年と紀元前210年、琅邪(ろうや、現在の山東省)からという記述があるからです。

帆船

司馬遷は、20歳から2年間、徐福の伝説の舞台となった斉(せい、現在の山東省北部を中心とした地方)、魯(ろ、現在の中国山東省南部)など、各地を自由に旅し見分を得て、検証しています。その頃は、世を騒がせた大事件、徐福東渡の話が、まだ鮮やかに残っていたでしょう。

司馬遷は厳格に学問研究を行った史学者。
著作「史記」は、その内容の史実が正確なので高い評価を得ている歴史書です。政府公認の正史。

その頃、沢山の帰化人が来日したであろうーその母国、中国とは、どういう背景を持った国だったのでしょうか。

中国の春秋時代と戦国時代

日本が、縄文時代だった頃、中国では春秋戦国時代でした。
紀元前770から、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代をいいます。

春秋時代(紀元前770年~)の終りは紀元前403年と、前453年の2つが主流ですが、この他に、紀元前481年、紀元前476年と、さまざまに分類の仕方があります。

ここでは特に、春秋時代末期に普及した青銅器、鉄器等の金属器に注目します。

青銅器

鉄器は各種の生産力を飛躍的に増大することになります。

特に土地の開墾は、木製の農具や石器まがいの用具とは違い、鉄器の農具となれば飛躍的に進展し、まさに新天地を取得したようになりました。

そしてー時代は、下剋上となります。

戦国時代

戦国時代(紀元前475年~紀元前221年)に入ると、11諸侯が7つとなります。

戦いで淘汰され、「戦国七雄(せんごくしちゆう)」と呼ばれる7つの強国が登場します。

秦は、その七雄の最西端の1国でした。

戦国時代、生産力が増大し、都市間の流通活動が活発になります。

流通業者が台頭し、彼らは商人、地主となって、1国の政治をも動かしました。

そうなると、その活動範囲が限りなく広く、国と国の間の障壁がないようにと望むようになります。

一般庶民にとっても、安くて良い商品が自由に入手でき、生産物が売れることが、国や民族の違いをこえてこの上なく望ましくなります。

秦の統一戦争

秦が戦国七雄の六国を滅ぼし中国を統一する戦争は、紀元前236年の趙(ちょう)攻略の開始から紀元前221年の斉(せい)攻略まで15年間続きました。

斉を滅して中国を統一すると、その領域は広大になりました。

北は現在の中國東北部の遼東半島から南は現在のインドシナ半島の北部(ハノイ付近)、西は、当然、元々の秦です。

当時の人口は2000万人といわれ、統一的専制主義の中央集権的封建国家が誕生しました。

兵馬俑

後世の人々が「中国は一つ」という意識を持つようになる、この大改革は、民族文明の多様性を統一しました。

政治、経済、思想、文化、風俗、礼儀の全方面に及びました。

その功績はあまりにも大きいものがありますが、ひとつだけ、あまりにも有名なところが、万里の長城の補修と建築です。

万里の長城

文字通り、この世の中のあらゆる権力と富を手に入れた秦の始皇帝ですが、一つだけ欠けているものがありました。

それが「長生不老(不老不死)」でした。

不老不死

秦の始皇帝には立派な墓があるので、実際には、不老長寿は不可能ということを知っていましたが、当時「神仙思想」というのが、人々の生きる糧とでもいいましょうか、絶対的に人気のある思想、宗教、願いでした。

兵馬俑

神仙(しんせん)思想って?

「神仙」とは、一見むずかしそうな言葉ですが、意味は、不老不死で、神通力をもつ人、仙人のことです

徐福は神仙方士といわれますが、方士とは、神仙の術を身につけた者、道士のことです。

道教の影響が入っているので道士といいます。

道教は、中国に発生した民族的宗教で戦国時代末期に起こった神仙道の宗教化したものです。

仙人となって不死を得ることを窮極の目的とします。

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徐福と斉の国

徐福は斉で紀元前255年に生まれ、東渡は、36歳から45歳の間の出来事。

徐福が生まれ育った、この斉は、海洋に面し、中国の学問、文化の中心でした。

おのずと海洋に関する知識が豊かにあり、魚業と造船も盛んでした。

始皇帝に滅ぼされる紀元前221年まで、約630余年続いた、現在の山東省の南部、全地域を含みます。

また、徐福の徐は徐氏という4000年の歴史を持つ中国の正統な士族で、斉を代表する1位、2位の神仙方士でした。

秦が統一されると、始皇帝に方士として仕え、呪術、祈祷、医薬、占星術、天文学に通じた学者として、その頭脳を見込まれて、全面的に信頼されていたのが徐福でしょう。

始皇帝と徐福

徐福は:

道教の個人の価値や精神の自由を追求していました。

海の向こうには陸地があるという説の実践者で理想国土の追求者でした。

自然界の植物を利用して、老衰に抗して長寿の方法を解決しようとしました。

神仙思想の当事者、一般の人よりはるかに海外の神山の伝説を理解し、海上を航行して、理想国土を求めることを強く願っていたことでしょう。

同時に、始皇帝が長生不老を希望したことから当時の医学界にとっては緊急で最重要の課題となっていたのが、「長生不老の医療品を求める」ことでした。

ですから、この二人の出会いは、起こるべくして起こった運命でした。

結果として、始皇帝は徐福に10年の歳月と巨費を与え、長生不老の薬を求めさせました。

が、徐福らは東海の三神山(蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう))に向かって船出し、その後再び故国に戻ることはありませんでした。

史記だけで4回の記述

「童男童女3000人、これに五穀の種と百工を加えて派遣した。徐は平原広沢を得て、そこにとどまって王となり帰ってこなかった。」という趣旨の記述のことです。 

秦始皇本紀(しんしこうほんぎ)に3ヶ所と4ヶ所目は 淮南衡山列伝(わいなんこうざんれつざん)という、合計4ヶ所で「史記」に書かれています。

他の史書、文献にも書かれています。

徐福がやってきたかもしれない紀元前2~3世紀は、日本では弥生時代初期。

当時の日本では「倭」「邪馬台国」という名前もなかった時代です。

それ故、司馬遷は「徐福は平原広沢を得て王として止まり来たらず」と書いたのでしょう。

新天地のスタートに万端の準備で出発した

3000人の童男童女は求仙の後継者で、若い労働者たちです。

百工とは、各種専門技能と特殊熟練技巧を持った生産技術者のことです。
秦においては手工業の代表として、また生産力の担い手として活躍しました。

五穀とは、稲(米)、大麦、小麦、大豆、小豆、黍(きび)、粟(あわ)などのことをいいます。
その種とは将来の食料をしめします。

船隊の組織者と水夫も同行しました。
さらに弓の上手な射手も同乗し武装した保安隊となりました。

ある情報によると、船団の構成員は5000人~6000人、船舶は60~70隻ということです。

またある大学教授の算出した数字で総人数が5250人という具体的な計算も出てます。

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であるならば、もしかして、海流に流され、日本全国に徐福の一行が散らばったという可能性も出ます。

日本近海の暖流に流され、どこかに漂着したのでしょうから。

徐福が熊野の深い青い森と海を見て、どう思ったのか是非、知りたいですね。

みなさんはどう思いますか?

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