名僧 山本玄峰(やまもとげんぽう)とは
東光寺の前に大きく立派な石碑があり「玄峰塔 96歳自筆」とあります。
96歳の玄峰老師が入寂の2週間前に揮毫したという絶筆の書の石碑です。
石碑の正面の下側のプレートにも「この揮毫は山本玄峰老師の絶筆である」とあります。
揮毫(きごう)とは、毛筆で何かを書くことです。
絶筆(ぜっぴつ)とは、生涯において、最後に書き残した文のことです。
以下、碑文が読みにくいので正確ではありませんが、記述いたします。
むづかしい言葉が並びますので、説明として意味もつけたしています。
老師は慶応2年に当地に生誕し、25歳で土佐雪渓寺で得度(とくど:出家すること)
艱難辛苦(かんなんしんく: ひどくつらい目や困難な目にあって、苦しむこと)の末 大悟し
妙心寺派管長(かんちょう:宗教団体における最高位の宗教指導者)等歴任
九十六歳で遷化(せんげ:高僧が死ぬこと。)する
日本国憲法の象徴天皇を示唆するなど 各種業績は数知れず
その遺徳は時を経るごとに光明と清香を放つ
近世の傑僧(けっそう:とびぬけてすぐれた僧)である
みなさんご存知だったでしょうか。
私は知りませんでした。
熊野には、多くの偉人がいます。
その中でも、個人的には、現代人は、この老師の足元にも及ばない、という感慨が強いです。
計り知れないほどの傑僧とされる老師の紹介については、ここでは、おのずと限られた内容となってしまいます。
ご了承ください。
山本玄峰と湯の峰温泉
芳野屋(現在の旅館あづまや)という旅館の玄関先に捨てられていました。
それが山本玄峰です。
生誕は、江戸時代が終る頃の1866年(慶応2年)のことです(没年は1961年、享年96歳)。
その赤ん坊を岡本という夫妻が養子として迎え、岡本芳吉(よしきち)と名づけます。
お墓は渡瀬の岡本家の墓地にあります。
幼少時代を渡瀬にて過ごします。
(湯の峰温泉の旅館あづまやを老師は生前にいつも利用し、館内には直筆の書も残されているそうです。)
芳吉12歳の時に、養母、とみえ は35歳で亡くなります。
慈愛豊かな母が亡くなり、芳吉には、大きな傷として残ります。
紀州は豊かな森林資源があり、青年時代は、きこりや紀ノ川の筏流し(いかだながし)、足尾銅山の工夫など肉体労働に従事します。
19歳の時に眼の病気となり、失明の宣告を受けます。
ある人から「四国八十八か所霊場巡りを満願すれば、眼は治癒されるかもしれない」と聞き、経済的に恵まれないなか、はだしで巡礼の旅に出ます。
この旅は7回繰り返されます。
その7回目の巡礼の時、高知県にある三十三番札、雪蹊寺(せいけいじ:高知県高知市長浜にある臨済宗妙心寺派の寺院)で行き倒れとなります。
行き倒れになった芳吉(よしきち)を助けたのは雪蹊寺住職の山本太玄和尚(17代住職)でした。
そこで太玄和尚の弟子となり厳しい修行の道に入り、25歳で出家し玄峰(げんぽう)の号を受け、1901年(明治34年)、太玄和尚の養子となり雪渓寺の住職(18代住職)となりました。
当時の住職、太玄和尚と玄峯老子との逸話
個人的に心に沁みる話なので、特に例示いたします。
太玄和尚が玄峯老子に対して「お前さんは坊さんになる人だよ。」と。
玄峰老師「私は目は見えず、文字も知らない。それでも坊さんになれるでしょうか。」
太玄和尚「親からもらった眼は、老いも若きも、いつの日にか見えなくなる。
しかし、心の眼は一度あくと、つぶれることはないのだ。
お前さんは心の眼はまだあいておらぬが、その気になればあくはず。
文字を知らないと経は読めないかも知れぬが、通り一遍の坊主なら幾らでもいる。
死んだつもりになってやれば、ほんとうの坊さんになれるよ」と。
山本玄峯 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」
政界、財界を問わず、老師の人柄を慕い、訪れる要人は沢山いました。
当時の枢密院議長で総理就任を打診されていた鈴木貫太郎氏に、「これからが大事な時ですから、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、体に気をつけながらやって下さい」という手紙を送ったといいます。
これが終戦を前にして玉音放送で流された「堪え難きを堪え忍び難きを忍び」の文言になったとも言われています。なんと。
終戦後の憲法制定の際には「天皇が下手に政治や政権に興味を持ったら、内部抗争が絶えないだろう。天皇は空に輝く象徴みたいなもの」と、憲法改正委員会のまとめ役であった楢橋渡氏に語り、これにより「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という条文に大きい影響を与えたとも。
今、山本玄峯老師が生き、この世の中を見て、一体どういう言葉を発するのかと、知りたいと思いませんか。