熊野速玉大社と無料駐車場

熊野速玉大社

敷地内に無料駐車場があります。
こういう駐車場があると、なんだかホッとして、安心するのは、どうしてでしょう。

駐車場から自然に歩いていくと、御神木の梛と神門の近くに出てしまいます。
そこから、少しだけ敷地内を戻り、正面の鳥居まで歩きました。

鳥居と太鼓橋です。
個人的には、なんだかかわいい感じがして、親しみやすさがあります。
神社というより、何故か、どこか公園に集うという感じがあるのですが、不謹慎ではありません。
ふらっと出かけてみたいーそういう神社という意味です。

ここは、神々が降臨した熊野信仰の発祥地といわれます。

近くの神倉山の中腹に、ご神体のごとびき岩があります。
ごとびきとはヒキガエルのことだそうです。

この大きな岩は別名、天ノ磐盾(あまのいわたて)といい、霊石です。
岩を自然崇拝するというのが、元々の始まりです。
天ノ磐盾に降臨した熊野三神(熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神)を景行天皇58年の128年に新しく神殿を建て、旧宮に対しての新宮(にいみや)となりましたということです。

これが新宮市の由来にもなっているようです。

第46代、孝謙天皇(在位、749年―758年)から「日本第一大霊験所」の勅額(天皇直筆(じきひつ)の額)を受け、全国の熊野神社の総本宮です。

なんと、千二百点もの国宝、古神宝類も奉納され、樹齢1000年という御神木、梛(なぎ)の大樹があります。

手水舎(ちょうずしゃ)

神門入る前の手水舎です。
龍でしょうか、かわいいです。

熊野速玉大社 ご由緒

もう少し詳しくご紹介いたします。

繰り返しとなりますが、熊野速玉大社は、神倉山の霊石ゴトビキ岩(天ノ磐盾)をご神体とした自然崇拝から始まりました。

この天ノ磐盾に降臨せられた熊野三神(熊野速玉大神、くまのはやたまおおかみ・熊野夫須美大神、くまのふすみのおおかみ・家津美御子大神、けつみみこのおおかみ)を128年に新しく神殿を建てて創始とします。

奈良末期に、衆生の苦しみと病気を癒す薬師如来として過去世の救済を、熊野夫須美大神は現世利益を授ける千手観音菩薩、家津美御子大神は来世浄土へ導く阿弥陀如来として本地仏となり、山伏や熊野比丘尼によって熊野権現信仰は人気となりました。

その後、中世(鎌倉時代、室町時代)には熊野信仰の興隆により、皇室、公卿、武士中心から庶民への信仰へと発展し、過去世救済、現世利益、来世加護を求める熊野詣は、滅罪、甦りへの道として、「蟻の熊野詣」といわれるように賑わいました。

この内容は、もう、おなじみの内容ですね。

主祭神は熊野夫須美大神(いざなみのみこと)と熊野速玉大神(いざなぎのみこと)というご夫婦の神様です。

この二柱(ふたはしら)は、第一殿と第二殿に祀られています。

全体として十二柱の神々を祀っています。

十二柱もある、多数の神様ということで複雑ですが、「拝殿」でお参りするときに、頭上に、そして、同じく拝殿の横にある鈴門(5か所)それぞれでお参りする時に、頭上に、該当する神様が記されていますので混乱することはありません。ご安心を。

どうぞ、その都度ご確認いただき、お参りください。

熊野速玉大社 本殿

さて、神門を入っていくと、正面に拝殿があります。

本殿は瑞垣(みずがき)の中に五棟あります
(①~⑤が本殿の五棟です)。

拝殿と瑞垣で囲まれて、本殿として5棟の建物があります。

向かって左端から第一殿、第ニ殿と始まり、第十三殿まであります。
十三殿だと十二柱の神様なので、数が合わないと、いうことになります。
その理由は、第五殿、神倉宮の高倉下命(たかくらじのみこと)は神様ではなく、人だからということのようです。それで合計、十二柱の神々となります。

高倉下命(たかくらじのみこと)とは?
高倉下とは、神武天皇東征中の最大の危機を救った熊野の土豪だそうです。「古事記」「日本書紀」によると、神武天皇が紀伊に迂回して大和を目指す途中、熊野の村で大きな熊の毒気によって兵士たちともども気絶してしまいました。 その時、高倉下が天皇に大刀を献上し、目を覚ました天皇はその大刀で神の邪気を払ったということです。

本殿の神様をご紹介いたします(第一殿から第十三殿まであります)。

①第一殿(結宮、むすびのみや)が、熊野結大神もしくは熊野夫須美大神、いざなみのみこと、です。

主祭神の熊野夫須美大神は、熊野牟須美大神(くまのむすびのおおかみ)ともいいます。「牟須美」は「結」とも表現されます。それ故、熊野結大神(くまのむすびのおおかみ)と熊野夫須美大神は同じです。

②第ニ殿(速玉宮、はやたまぐう)が熊野速玉大神の、いさなぎのみこと、です。

この両者の名前は、拝殿でお参りするときに頭上で記されていますので、どうぞご確認ください。

③摂社の奥御前三神殿)

摂社の小さな奥御前三神殿があります。天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の3柱を祀っています。
 

④第三殿から第五殿を上三殿)といいます。

第三殿(証誠殿、せいじょうでん)が家津美御子大神です。またの名前を国常立命(くにとこたちのみこと)といいます。

複雑なのですが、両者は同じ神様です。

国常立命(くにとこたちのみこと)

日本神話の冒頭部の天地創成時に出現する神で、トコは土台、タチは出現という意味です。
混沌として浮遊するものの中から国の土台が出現したことを意味する神です。
例えば「日本書紀」では、その形状は葦の芽のようであったとし、国の土台出現という名前にもかかわらず、具体的な国土の形成というものではなく、理念的な「国の土台」を指示しているとされています。

この神の名前も、拝殿から出て、すぐ右の鈴門にて、銘記してありますのでご確認を。

第四殿(若宮)が天照大神です。

第五殿(神倉宮)が高倉下命です。この人は神ではないようです。

神倉神社の祭神が、天照大神と高倉下命(たかくらじのみこと)です。

⑤第六殿、第七殿、第八殿、第九殿を中四社、一方、第十殿、第十一殿、第十二殿、第十三殿を下四社と称し、両者を合わして八社殿といいます。

中四社・下四社を合わせて八社殿で八柱の神々を祀っています。

これらにより、合計で十二柱の神様と、合計5棟(①~⑤)の本殿となります。

熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家都美御子大神、の三神を熊野三所権現といいます。
そして、熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)のどこも、この三神を祀っています。
こうやって、三社の主祭神を相互に祀りあい、相互の連帯関係ができ、熊野三山となりました(平安時代)。

世界平和を祈る梛(なぎ)の御神木

梛の木って?

四国、九州、南西諸島、台湾等、暖かい場所に自生し、光沢のある楕円形で広葉樹のような葉をしていますが、針葉樹に分類されています。

雌雄異株(しゆういしゅ)となっており、雄株と雌株があります。
5〜6月になると雄株には雄花が、雌株には雌花が咲きます。
葉の付け根にひっそりと花が咲き地味であまり目立たないです。

雄花の花粉が風によって運ばれ、雌花につくことで受粉します。
受粉した雌株は直径1.5㎝ほどの丸い実をつけ、秋になるとこの実が青白く、表面に白い粉をふいたような状態に熟します。
神社などにナギが植えられる際には、雄株と雌株とで一対として植えられることが多くなっています。

高さが20~25mになる巨木ですが、コンパクトな観葉植物としても流通している美しい木です。

神社の御神木の梛、縁起の良さは保証付きです。

平安時代から神が宿る木として大切にされ、災厄(さいやく)を祓う(はらう)と信じられ、神社の御神木となっています。

神社で使われる木なので、縁起のいいのは保証付きということになりそうですね。

まず、葉脈が縦方向に伸びているため、葉が横に裂けにくく、縁が切れないという理由で「縁結び」や「夫婦円満」の木としてお守りになっています。古来、良縁や夫婦の縁を望む女性は、手鏡の裏に、この葉を入れて願をかけていました。

梛は凪(なぎ)に通じるという理由で、航海の安全を司るとして船乗りたちの信仰を集めていました。漁師や船乗りは航海に出る前に葉や実をお守りとして身につけて安全を願ったそうです。

また、苦しみを「なぎ」払う、縁起のよい樹木、聖なる木として、古来から大切にされてきました。それ故、スピリチュアルパワーを感じるということで昨今では自宅に盆栽や観葉植物として用いる人もいるようです。

熊野速玉大社の御神木 梛

国指定天然記念物です。

簡単に看板の案内を要旨として抜粋いたします。

熊野から世界へ捧げる平和の祈り

樹齢約1000年とされ、日本一の梛です。
1972年、沖縄が本土に復帰した時、この神木の苗木が沖縄に植樹されました。それから40年後、各地の農林高等学校で発見されることになりました。立派に根付いているその姿に、沖縄の苦難の歴史が重なり、速玉大社の宮司のもとに、平和を願う心ある人々が集い、2012年6月、「世界平和の祈り」が捧げられました。

平重盛が手植えした梛の御神木です。

千年の時を刻んで平和を象徴する霊木となり、訪れる人々を見守り続けています。どうか心静かに手を合わせ、すべての命あるものを慈しみ、世界の平和をお祈り下さい。

熊野速玉大社のHPには、宮司さん、上野さんという方が、毎年メッセージを載せていらっしゃいます。
宮司さんという職種の方とは、個人的なお付き合いは、人生で一度もないので想像もできませんが、人間味あふれる気持ちがつづられているような気がします。また、こういう雰囲気が、全体として熊野速玉大社の雰囲気をも醸し出しているような気がいたしますが、いかがでしょうか。
どうぞ皆さんも、お時間のある時に、ゆっくりと読んでみてください。

さざれ石って?

日本の国家、「君が代」に登場するさざれ石です。

   ” 君が代は千代に八千代にさざれ石の巌(いわお)となりて苔のむすまで

    君が代は千尋(ちひろ)の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるるまで ”

10世紀初頭の最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の「読人知らず」の和歌が歌詞として用いられており、世界の国歌の中で、作詞者が最も古いといわれています。

令和2年(2020年)2月2日の早朝、新宮市王子ヶ浜の海岸に打ち上がり発見されたそうです。

それも2番の歌詞のごとく現れたそうです。

この大きさになるのに数千万年の時間がかかります。

「君が代」とは天皇にあっては「天皇の治世」を意味しますが、一般的には、この歌を受ける者の長寿を祝う意味でした。

小石が巌(いわお)となり、その上に苔が生えるまでの過程が、非常に長い歳月を表す比喩表現として用いられます。

どうやってできる さざれ石?

さざれ石とは本来、細かい石、小石のことをいいますが、小石の固まった様子が顕著である石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)についても通称として、さざれ石とよぶようになりました。

石灰岩の角礫(角張った岩片)が固結してできた堆積岩を、石灰質角礫岩(せっかいしつかくれきがん)といいます。

石灰岩中の方解石などの炭酸塩鉱物が雨水の中に溶け出し、コンクリート状に固まることで角礫同士が結合することにより形成されます。

角礫とは、その表現の通り、角張った礫(れき)が堆積してできた礫岩です。また多くの場合、砕屑物(さいせつぶつ)のサイズも統一されることもなく、主に陸上または水中での崖崩れによってできます。

風雨に晒されると侵食しやすいので、1mから数mに大きくなる岩石になりやすい性質があります。

大きくなった石灰質角礫岩にしめ縄で飾ったさざれ石が日本全国の社寺で飾られています。

希少なさざれ石は日本全国にあるということですね。

世界遺産としての熊野速玉大社とは?

熊野速玉大社は、熊野川の下流近く、アクセスの仕方も分かりやすいです。
平坦な所にあるので、何の問題もないですね。

熊野川の川岸に位置する現在の速玉大社(1951年再建)は、遅くとも12世紀、平安時代以降の位置をそのまま踏襲しているとされています。

が、世界遺産としては、この神社の境内だけではありません。

世界遺産 権現山もしくは千穂ヶ峰

神社の背後から、新宮市の西側を南北方向に延びる、権現山(ごんげんやま、標高253m)もしくは別名、千穂ヶ峰(ちほがみね)の東部と、熊野川に浮かぶ「御船島(みふねじま)」及び「御旅所(おたびしょ)」を含みます。

この権現山は、神代の頃、熊野の神々が降臨したという、押しも押されもせぬ「コトビキ岩」と、それをご神体とする「神倉神社」が鎮座している場所です(標高120m)。

ご神体近辺から、3世紀の銅鐸、12世紀を中心とした経塚が多数発見されています。
世界遺産に相応しく、自然と文化が豊かに保存されています。

この「権現山国有林」という看板は御旅所(おたびしょ)近くにあります。
住宅街のすぐ近く、なかなか分かりにくい所にありますが、ご近所の住人にお聞きいたしました。
住宅街をウロウロする怪しさ満載の雰囲気の人物に、ご親切に教えていただき感謝です。

赤い点線で示すコアゾーンとは、文化遺産および自然遺産を構成している核心となる資産(Property)のことです。2008年第32回世界遺産委員会で、コアゾーンは資産、Propertyという名称に改められました。

一方、バッファゾーンは緩衝地帯というべき役割を持ち、遺産の中心部となる核心地帯(コアゾーン)の景観を保存するために開発を制限する地域です。その周囲にバッファゾーンがあるからこそ開発が制限できるのです。世界遺産に含まれていませんが、コアゾーンには、とても重要な役割を果たしています。
権現山の残り一体がバッファゾーンになってます。

上の看板で、御旅所は、現在地のすぐ近くにあります。
小さい楕円状の形の島が御船島です(赤い〇印)。

千穂ヶ峰、もしくは権現山は、新宮市街地と熊野川を隔てています。
2つのピークがあり、最高地点は北の権現山(ごんげんやま、253m)ですが、神倉神社のある神倉山(198.3m)の方が圧倒的に有名です。

2月6日の夜には、御燈祭り(おとうまつり、国の重要無形民俗文化財)といって、白装束に身を包んだ2000人ほどの上がり子という男性が、538段の石段を駆け降りるという火祭りがあります。

山は火の滝下り龍と化します。

まさにスピリチュアル・パワーが炸裂する夜です。

世界遺産 御船島(みふねじま)

熊野川沿いに速玉大社から車で5-6分の所にあります。
面積約2,200㎡の無人島で、熊野速玉大社が所有しています。
住所は三重県です。熊野川沿いにある御船公園に向かいました。

熊野川を渡った、三重県側です。

みふね公園と読めますでしょうか。

最高の景色、御船島、です。
美しい熊野川も世界遺産です。

10月15日と16日に行われる御船祭(みふねまつり、国の重要無形民俗文化財)の舞台となり、御輿を乗せた神幸船(神幸とは霊の御幸(ぎょこう、みゆき)が行われること)が渡御(とぎょ、神輿が出かけていくこと)します。

そして、この島の周りを早船(はやふね、急いでこいでいく小船)の競漕(きょうそう、一定の距離をこいで速さを競う)が行われ、島の周りを3周するのだそうです。

島には御船明神が祀られています。

世界遺産 御旅所(おたびしょ)

御旅所(おたびしょ)とは、神社の祭礼(神幸祭)で、神(神体を乗せた神輿)が巡行の途中で休憩または宿泊する場所、あるいは神幸の目的地のことをいいます。

同じく10月15日と16日に行なわれる御船祭で、熊野速玉大社の神霊が神馬や神輿に乗って渡御(とぎょ、神輿が出かけていくこと)する聖なる場所です。

新宮の由来となった最初の宮である杉ノ仮宮が、古式に則って建てられ、古代から絶えることなく伝えられてきた、祈りが捧げられます。

現代によみがえる、古代のおごそかな瞬間、みなさんは、何を思うのでしょうか。

御旅所からこの階段を下りると、熊野川の川原になります。そして、川原から見た御船島です。

世界遺産 神倉神社

熊野速玉大社の摂社です。

標高120mの神倉山に鎮座するゴトビキ岩を御神体としてます。
御祭神は、高倉下命(たかくらじのみこと)、天照大神です。

ここは、なんと「日本書紀」の神武東征の話に、即位前三年(紀元前3年)戊午の年(ぼごのとし)、六月、神武天皇が天磐盾(あめのいわたて)に登った、という記述があります。

私は、一度ならず登ったことがありますが、538段もある、崖のような階段を上るのは覚悟がいります。神武天皇に負けないように、せめて時間だけは掛けて、滑り落ちないと決意して登りますよ。

また、このご神体の岩の根元を支える袈裟岩という岩の周辺には経塚が発見されています。
平安時代の経筒が多数発掘されており、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製(かっせきせい)模造品が出土しているので、太古の昔、磐座信仰(いわくらしんこう、古神道における岩への信仰)から発したと思われています。

熊野速玉大社より、内容としては単純で、とても分かりやすいかと。
おまけに権現山の中腹にあるので、理由には関係なく登りたくなるのは不思議です。

さて、この神倉神社は、熊野の神々が降臨したところと言われ、そのスピリチュアル・パワーは定評があるようです。私は、こういう分野には疎いのですが、その精神性の一片でもいただけたら、といつも参拝いたします。

地元の人で、毎日、お参りする人が沢山いる様子です。地元の人々にとっては、かけがえのない、特別な存在です。

神倉神社 由来

熊野の神々が熊野三山として祀られる以前に、一番最初に降臨された聖地です。
それ故、熊野根本大権現ともいわれました。

天ノ磐盾(あめのいわたて)という巨石の上にあります。

御祭神は、天照大神と高倉下命(たかくらじのみこと)です。

     高倉下命は、建国の功臣、熊野三党(宇井・鈴木・榎本)の祖で、農業、漁業の守護神です。

     天照大神は、天皇の祖先とされ、あらゆる願いを聞き届けます。

     高天原を統治し太陽の神となりました。

     岩戸屋に身を隠したとき、世界は闇に覆われたとされています。

一番目の鳥居から歩き始めます

女坂が、鳥居からちょっとだけ上った辺りで、右手にあります。

地元の参拝者がいたので、女坂について、お聞きしたら、枯葉がたまっていて、困難と教えていただきました。

こちらのほうが足を踏み外すようなことが起こりやすく、危ないのだそうです。

納得して、通常の石段でいくことにしました。

1193年に源頼朝が神倉神社に寄進したもので、538段あります。

ひたすら登り続けます。途中で、たくさんの人にお会いしました。

そのうち、広場となります。

この広場は、もし初めて参拝される場合には、実際に行くと、思ったよりも広い空間と感じます。

女坂を上る場合、一つ目の鳥居を入ったすぐの右側にあり、その出口(もしくは、女坂を降りる場合には入口となります)が、ここにあるので、この広場には誰もが来ることになります。

それ故、急傾斜を登っていけない場合の選択肢として、楽にするために作られた山道が女坂ということでしょう。

しかしながら、山の坂道が滑りやすく、足を傷つける可能性があると事前にアドバイスをいただけました。
どんなラフな道も歩けるタフな人には問題ないでしょうが、私のようなヒ弱な人間はよく考えないと危ないです。

この広場まで来ると、あとの階段はそれほど急傾斜ではありませんので、比較的、楽に登れますよ。

一番下から階段のみで、時間をかけて、何度でも気が向いた時に休憩しながら、ここまで来ると、それほど苦痛ではありませんでした。試してみて下さい。自分の体力に自信がつきます。

ここまで来るとあと、もう少しです。

先は見えてきました。

石積みの側面が見えます。

途中、会った人の中で、細身の40歳位の女性が・・トントンと登りはじめ、また、短時間でトントンと降りていった方がいらっしゃいました。たった15分程で往復してしまうという・・驚異的な女性です。
こういう方々が沢山いるので、恥ずかしくて、何も言えなくなりました。

とてもマネはできませんが、今日は、見習って頑張りました(2023年7月)。

2番目の鳥居を抜けます

すると、手水鉢(ちょうずばち)があります。

新宮城主第2 代の水野重良(みずのしげよし、1596年~1668年)が、下野国(しもつけのくに、栃木県)那須城主の大関高増(おおぜきたかます)の母(重良の姉もしくは妹になります)の延命と繁栄を祈願して寄進したものです。

正面には、重良が寛永8年(1631年)2月寄進したと刻まれてます。

到着です

今までの苦労もなんのそのー新宮市全景と太平洋の美しい絶景で疲れが吹っ飛びました。
早朝なので、海が輝いています。
来てよかった❣と、そして、また来たいと思う瞬間です。

袈裟岩

落ちそうで落ちないゴトビキ岩は、数個の巨石でささえられているということです。
巨石はひとつふたつという少数ではないようで複雑です。

帰り道に、これらのささえている袈裟岩という奇岩もお参りいたしました。
これが、その袈裟岩の一部でしょうか。

神倉神社の遠方からのベストショット

神倉山の中腹にある神倉神社を、国道42号線上から写真を撮れる場所があります。

つまり、ちょっと遠方からの、下方から神社のべストショットを撮れる駐車場があるということです。

この駐車場の使用許可は神倉神社、表参道商店街と看板に書かれています。

それで、早速、車を駐車し、お邪魔いたしました。

この駐車場に入って、とても良い写真を撮れましたので、みなさんと共有いたします(2023年8月)。

宇久井方面から入りますと、国道42号線の左側です。
三重県からですと、反対の右側となります。

駐車場に入る時は、どうぞ他の車との交通量と、交通ルールに気をつけてください。
危ないです。

駐車場の隣は朝の5時半からオープン(15時終了)しているおむすびやさん(店名、おむすび一郎神倉店)です。(火曜日が定休日)

沢山のお客が出入りしていました。おいしそうですね。

味噌汁が無料という情報もありますが、未確認です。
来店される場合は、どうぞご自分でご確認ください。

おむすび一郎神倉店
おむすび一郎おむすび一郎は新宮市内のおにぎり屋さん。品揃えも豊富、人気のメニューと値段の最新情報です。神倉店は早朝5:30から開店で、新宮市神倉1丁目の42号線沿い。駅前店は朝9:30から開店です。...

川原屋横丁(かわらやよこちょう)

江戸時代から昭和初期まで、熊野川河口近くに、川原屋(かわらや)という家が百数十軒ありました。
最盛期には数百軒あったそうです。

特徴として、釘を1本も使わず、組み立てと解体が簡単にできる仕組みになってました。

熊野川は雨が多く、年に5回ほど洪水となります。
川原が水没する前に解体して、出水のない、船町という速玉大社横の町等に運び避難しました。
そして、水が退くと元の場所に戻り家を組み立てました。

その度に解体し組み立てるためには、部材は最低の量であることと、できるだけ軽量であることが求められます。また、組み立て、解体には1-2時間で終了できるような簡単な構造と、分かりやすい作業手順が必要とされました。

それが川原屋です。川原に建つ家々ということでしょうか。

川原のイメージ写真

いつ起こるか、そして、どういう状態になるか不明の川の氾濫を相手に、自分達が、それに合わせ、逆らわないでやっていこうという知恵です。結果として、できるだけ無理のない、コンパクトで簡単な構造になりました。

当時は、宿屋、鍛冶屋、散髪屋、銭湯、飲食屋等があり、なんでも揃う町でした。
時代の流れとともに、町が消滅したのは昭和20年代です。

現在の川原屋は「新高川原屋」といわれ、新宮高等学校建設工学科の生徒さん達が研究テーマとし、復元、改修されたもので、さらに組み立てが簡単になっているのだそうです。

大きさは間口二間、奥行き二間、慣れた生徒さん5-6人ならば、組み立てに1時間、解体に30分ほどでできるそうです。

和傘の灯り

来年の2024年、世界遺産登録20周年に向けて開催されました。(11月3日~5日、2023年)

いわゆる世界遺産登録をお祝いする前夜祭とでもいいましょうか。

来年にむけてさらなる新宮市の発展を願うイベントですね。

ポスター

この「和傘の灯り」の1回目は、2018年で、今回で5回目ということなので、1回はコロナ禍で不開催となったのかもしれません。

3日~5日の午後5時半~午後9時、熊野速玉大社の社殿や境内が、ライトアップした和傘や、光のプロジェクションマップで彩られます。

新宮市の文化財に注目して市の魅力を発信するという意図で始まり、新宮城跡公園、旧西村家住宅、徐福公園など行われ、速玉大社では今回が初めてです。

和傘祭り

↑過去、西村家での和傘の灯り(地元写真家、橋本氏撮影)

「人と場所、未来へ想(おも)いを繋(つな)ぐ」がイベントの主要テーマです。

これは行かねば一生の後悔となると、昼間ですが、参りました。

かわいい模様の和傘が境内に、ここかしこに置かれ、素晴らしかったです。

昨夜の光のファンタジーの中を写真を撮りに来られた地元の写真家のお話によりますと、夜は人出が多く、写真がなかなか撮れる状態ではなかったということでした。

闇と光の共演は残念ながらありませんが、昼間に来てよかったと思いました。

本当にかわいいとしかいいようのない和傘です。

できるだけ写真をアップいたします。

お楽しみください。

和傘祭り和傘祭り
和傘祭り和傘祭り

5日午後4時半からは元「the blue hearts」のドラマー、梶原徹也さんと近畿大学新宮高校中学校吹奏楽部の音楽セッションがあるので、盛り上がりは、バッチリだったでしょうね。

手水鉢

手水舎も沢山のお花でオシャレしています。