祓殿王子社跡(はらいどおうじしゃ)
住所 和歌山県田辺市本宮町本宮
祓殿王子社は熊野九十九王子のひとつです。
熊野本宮大社に参詣する前の最後の王子でした。
もう一度、これらの王子について少しだけ詳細にお話しします。
九十九王子
王子という名前は、英語でいうプリンスという意味ではありません。
山の中で修行をする者たちを守護してくれる神仏は童子(どうじ:こどものこと)の姿をとるという修験道の思想に基づいてます。
主に12世紀から13世紀頃、皇族、貴人の熊野詣に先達(せんだつ:先頭に立って案内する人)をつとめた熊野修験者(くまのしゅげんしゃ)により急速に設立された一群の神社のことをいいます。
目的は、参詣者たちの守護を祈願するためでした。
熊野の参詣道に沿って、九十九王子と言われています。
この場合の九十九は数が多いことを意味し、実際に99個あるのではありません。
熊野古道、特に紀伊路、中辺路にある小さな神社のことです。
一番目の王子
一番目の王子は、窪津王子(くぼつおうじ)です。
京都から始まって紀伊路に沿って、本宮、新宮、那智までの間を、おおよそ三一町余に一つずつ置いた王子の一番最初が、窪津王子ということです。
現在の大阪市中央区天満橋付近にあり、その跡は、坐摩神社(いかすりじんじゃ、ざまじんじゃ)となっています。
田辺市本宮町域内の九十九王子は6社。
以下にリストアップします。
① 猪鼻王子(いのはなおうじ)、
② 発心門王子(ほっしんもんおうじ)
③ 水呑王子(みずのみおうじ)
④ 伏拝王子((ふしおがみおうじ)
⑤ 祓戸王子(はらいどおうじ)
⑥ 湯ノ峯王子(ゆのみねおうじ)
祓殿王子社
名称は、祓所王子、祓殿王子のどちらでも大丈夫です。
祓殿王子社は、熊野本宮大社への参詣を目前とした場所にある、いよいよ最後となる王子社でした。
当時の目的地は大斎原ですけどね。
今は、石造の小祠が祀られています。
王子の盛衰
京都からの熊野詣が下火となるのは、承久3年(1221年)の承久の乱以降です。
その歴史とともに、紀伊路も衰退し荒廃と衰退がすすんでいきます。
室町時代以降、熊野詣が卓越した地位を失うにつれ、この傾向はいっそう進み、近世、紀州藩による顕彰も行われたものの、衰退の勢いは止まりませんでした。
さらに、明治時代以降は、神道の国家神道化とそれに伴う合祀、廃絶などにより、社地が失われたり、元々の所在地も不明になるということが多く起りました。
王子という小さな神社の集合体は、基の建物も残っておらず、どこにあったのか不明ということにもなったのではないでしょうか。
和歌山県による説明
現地にある、和歌山県による説明板からご紹介いたします。
祓殿王子跡
前世と現世に心身に積もった穢れを祓い清め、日本第一の霊験をもって知られる熊野三所権現の神威にすがって、祈願し、生命力を蘇らせることを目的とする熊野参詣では、禊ぎ(みそぎ)や祓い(はらい)が重視された。
中でもこの王子での祓いは、熊野本宮参詣の前に行うもので、これまでの道中での祓いにも増して重要であった。
天仁二年(1109)に貴族・藤原宗忠(1062~1141)は、水呑王子に参拝したのち野路をたどり、祓いを済ませてから本宮の宿所に入って翌日の参拝に備えた。
また、およそ百年後の建仁元年(1201)に、和歌の講師として熊野御幸に供奉した貴族・藤原定家(1162~1241)は、この王子近くの地蔵堂で後鳥羽上皇の一行を待ち、本宮の神前に向かった。
和歌山県
潔斎所(けっさいじょ)的な場所であったのだと説明です。
*潔斎所(けっさいじょ)
心身を清めること。
法会(ほうえ)、写経、神事などの前に、沐浴(もくよく)などして身を清めること。
酒肉の飲食その他の行為を慎み、沐浴(もくよく)などして心身を清めること。
精進(しょうじん)。
そして、小さな森に立派な木が多々あります。
イチイガシが2本。クスノキが1本。スギ等だそうですが、大きい木のチイガシは樹齢300年以上だそうです。樹木も、とても大切に保存されていますね。
都市部ですと、いとも簡単に切ってしまうので、ここの精神を見倣ってもらいたいと悲願します。
当時、発心門王子から数えますと、水呑王子跡、伏拝王子跡、祓所王子跡の順で、ここまで歩き、大斎原まで、もう少しという場所です。
いよいよ目的地を目の前にして人々が、どういう気持ちで、禊ぎをしたか、私には想像したくとも、できないのは残念です。