紀伊国はサムライの国だった

紀伊国はサムライの国だった

トム・クルーズ主演、渡辺謙、真田広之らが出演した「ラスト・サムライ」をあなたはご存知でしょうか。

エドワード・ズウィック監督です。

アメリカ人が思い描くサムライとは、こういうものかという感慨を持ちます。

外国から見ると、サムライという言葉には、ああいうロマンが、あふれているのでしょうか。

それはさておき、サムライと言う表現は一向に人気が劣ることなく、特に海外と日本を比較する場面で、日本のかっこよさを直接表す言葉として頻繁に使われてます。

最近の一例ですが、天才野球選手の大谷翔平さん、本当のサムライかと思うほどかっこいいですね。

ここで話は、突然、近世の江戸時代(1603年 – 1868年)に入ります。

和歌山県と三重県は、古代より、平安京からの参詣道として由緒があっただけでなく、近世でも、最高位といっていいような高貴な家柄がありました。

それは、紀州国には、江戸時代のサムライとして、最高の格がありました。

紀州は徳川御三家の一つだったからです。

歴史上、2回、江戸幕府の征夷大将軍を輩出してます。

あなたは、知ってましたか。
私は知りませんでした。
これも学校で習ってはいるのですよね。

1603年徳川家康が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり1867年15代将軍慶喜(よしのぶ)が大政奉還をするまで約260年もの間、日本は、徳川家による強力な武家の中央集権国家でした。江戸時代のことです。

家康は征夷大将軍となり国を統一すると、時間を惜しまず三男、秀忠に2代目将軍を継がせます。
これは徳川が幕藩体制のトップにあるという地位を確実に知らしめる効率的な方法でした。

家康には11人の男子がいました。

が、家康の長男は織田信長により切腹となり、次男は豊臣秀吉の養子になりました。

それで三男の秀忠が二代目将軍となった訳です。

当時は子供が沢山いても若く亡くなることが多く、それ故、将軍、秀忠は、尾張にて九男の義直(よしなお)、紀伊にて十男の頼宣(よりのぶ)、水戸にて十一男の頼房(よりふさ)を大名家とし、将軍家の正統な血が断絶しないよう計らいました。

養子とするという方法を取り徳川家の男系継承を持続させようという趣旨で徳川御三家を制定します。

紀州、紀伊では、紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)あるいは紀伊徳川家(きいとくがわけ)と言われ、紀伊国と伊勢国を治めました。現在の和歌山県と三重県南部地域のことです。

2代目の将軍、秀忠以降、将軍は代々その子孫が受け継ぎ、7代目将軍まで続きます。

しかし、7代目将軍、家継は5歳で将軍になりますが3年後の8歳で亡くなります。

ここで、将軍家の血統を途絶えるなんてことになっては一大事です。

かねてから用意していた徳川御三家の真価が発揮される時が来ました。

紀州の徳川吉宗が8代目将軍となりました。

マスコミのドラマで有名な、あの「暴れん坊将軍」の登場です。

徳川吉宗と言う人は、5代目の紀州藩主として10年半務め、紀州藩の財政を再建しました。

1716年(享保元年)、征夷大将軍となった時も、成功した紀州藩での質素倹約を江戸の庶民にも推奨し、有名な「享保の改革(きょうほうのかいかく)」を収めます。

封建時代のサムライの時代の名君が吉宗でした。

享保の改革は、「寛政の改革」、「天保の改革」とともに江戸時代の三大改革として、学校でも習いますね。
有名なので、これは覚えていました。

その後、13代目の紀州藩主、家茂(いえもち)も14代目将軍に選ばれることとなり、紀州徳川家からの2人目の将軍となります。

8代目将軍以降、14代将軍・家茂まで紀州家が将軍を輩出することになります。

15代将軍徳川慶喜は水戸徳川家ですが、一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)に養子となった後、将軍になったので、厳密には御三家でないとされています。

紀州徳川家は、徳川御三家のなかで唯一、征夷大将軍を輩出した家柄ということになるのだそうです。

尾張徳川家からは一人も出てません。