渚の森駐車場(無料駐車場)
住所 那智勝浦町浜の宮
電話 0735‐52‐2523
参拝者用の駐車場です。
補陀洛山寺は8:30~16:00です。
熊野三所大神社は8:30~18:00です。
補陀洛山寺の前は渚の森と呼ばれ、和歌にも詠まれた名勝の森がありました。
また、熊野三所大神社の鳥居の横には樹齢800年という立派な楠があります。
熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)、補陀洛山寺周辺一体が渚の森として整っています。
そのような名前から来る渚の森駐車場に車を入れると至極、便利です。
収容台数は、バス2台、身障者用2台、乗用車20台位です。
地面がアスファルトで整っていることと、県道43号線から入るという手頃さで、この駐車場がお勧めです。
道の駅なちが、目と鼻の先なので、あらゆる意味で便利です。
振分石
駐車場の一番端の角に「振分石、ふりわけいし」があります。
那智山への県道43号線側、渚の森公園の海側にあります。
紀伊半島の西側の海沿いに沿った大辺路、紀伊半島の東側を海沿いに沿った伊勢路、田辺から本宮大社、那智山を結ぶ中辺路の分岐点を示す道標です。
江戸時代に、庶民が伊勢神宮へ参拝した後、速玉大社に参詣し、那智大社へと通じる道標となりました。
古くて見逃しそうです。どうぞお忘れなく。
一方、補陀洛山寺の敷地内、お寺のすぐ近くにもあります。30台ほどでしょうか。アスファルトと砂利です。
また、熊野三所大神社の敷地近くにも6台ほどの駐車場があります。狭めの道、奥になります。
補陀洛山寺(ふだらくさんじ)
補陀洛山寺(ふだらくさんじ)
住所 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮348
電話番号 0735-52-2523
拝観時間 8:30~16:00
駐車場 有(30台~40台)
拝観料 無料
補陀洛(ふだらく)というのはサンスクリット語の「ポータラカ」の音訳ということだそうで、なるほど、
とても変わった名前は、そういう理由だったのですね。
ポータラカとは、古代インドの南の海上にあるとされた観音菩薩の浄土を意味します。
チベットの中心地ラサのマルポリの丘の上の宮殿、ポタラ宮も、このポータラカとされてます。
日本でも南の海上にこの補陀洛浄土(観音菩薩の浄土)があるとされ、それ故、そこへ渡海(とかい)するという、捨身(しゃしん)という名の、一度出航したら二度と生きて帰ってこないという荒行をしていました。
現在、寺院は海から300メートルほど離れていますが、古い時代には、海から、たった20メートルから30メートル位しか離れておらず、海辺の波打ち際には鳥居がありました。
ここから、船に乗って、観音菩薩の浄土に向かおうとするのは、信仰を持った僧には自然の成り行きだったのでしょうか。
そうであったとしても、お坊さんも人により個性があり、さまざまな考えをお持ちだったことだろうと。
それとも、悟りを持ったお坊さんは、生死を超越するということでしょうか。
残念ながら、お坊さんの、史実としての、お気持ちを記した記録はないようですね。
地元で、伝わっているものがあるかもしれません。
あるのか、ないのかは、私が知らないだけかもしれません。
ここでの記載内容も、他の項目と同じく私の独断と偏見に基づいています。
この世界遺産(1994年に登録)は、那智駅、「道の駅なち」から至近距離にあります。
那智海水浴場のブルービーチも近く、観光客、地元民のつどう場所という、にぎやかな場所に近いです。
しかしながら、それとは裏腹に、あたかも誰にも気づかれたくないように佇んでいるのが、この寺社です。
補陀落山寺と青岸渡寺の深い関係
この二つの寺院の木造建築の外観ですが、似てると思いませんか。
青岸渡寺は、天正18年(1590)豊臣秀吉の再建です。
補陀洛山寺は、文化5年(1808年)の台風により大伽藍の全てを滅失し、その後、1990年に、室町様式(室町時代は1336年から1568年)の高床式四方流宝形型の本堂が再建されたということです。
建物に塗装がされていない、こういう落ち着きのある静寂さは、個人的には好みです。
こういう静寂さと素朴さに、古い時代の日本人の奥ゆかしさが、ひしひしと伝わってくるような気がします。
寺院やお社の輝くような朱の色を、あまり好まない人は結構います。
あなたには、どういう感じがしますか。
また、二つの寺院は、同じ開山です。
仁徳天皇の時代(4世紀)にインドから渡来した裸形上人(らぎょうしょうにん)により開かれたとされてます。
青岸渡寺も、同じく、「仁徳帝の御代(313~399)にインドの僧、裸形上人によって開基され上人が熊野浦に漂着して那智の滝にたどり着き、きびしい修行を重ねるうちに、観世音を感得した」とホームページにあるので、ここに引用いたします。
廃仏毀釈を逃れるために
明治時代に廃仏毀釈となった時、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたということです。
熊野那智大社では本堂の如意輪堂は有名な西国三十三所の第一番札所であったため、破却は免れ、仏像、仏具は補陀洛山寺に移されたそうです。
両寺院の深い関係がよく分かりますね。
補陀洛山寺も熊野三山です。
両方とも天台宗です。
熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)
同じ境内の、すぐ隣に熊野三所大神社が、あります。
この名前、熊野三所大神社を、「くまのさんしょおおみわやしろ」と、即時に、読める人は、いますでしょうか。
「くまのさんしょだいじんじゃ」としか読めないですよね。
九十九王子のひとつであった浜の宮王子社跡に建ち、古くは浜の宮王子社、もしくは渚の宮とも呼ばれました。
王子
王子とは簡単にいって、12世紀、13世紀頃に、熊野古道沿いに作られた小さな神社のようなもので、熊野参詣の先達(せんだつ)をした修験者(しゅげんじゃ)もしくは山伏(やまぶし)が、参詣者たちを守護、守るために建てたものです。
99か所あったのではなく、それほど沢山あったという意味で、実際には80余か所位だったそうです。
その目的理由から「中辺路」と「伊勢路」沿いだけにありました。
こういう説明には、諸説あるので、「実際にはどうなんでしょうか。」ということになりますね。
休憩所みたいなもの、という、思い切りの良い表現もあるようですが、これですと分かりやすいです。
参詣者が一途に歩き続けるのでなく、目的地に到達するまでに少しずつ休み、体力を蓄えるという、そういう目的があったとすれば、合理的です。
祭神は熊野三所権現です。
熊野三所権現とは、
①本宮の神の家津御子大神(けつみみこのおおかみ、家都美御子大神)
②那智の神の夫須美大神(ふすみのおおかみ、熊野結大神)
③そして、新宮の速玉大神(はやたまのおおかみ)
それ故、古来、熊野三山もしくは熊野三所権現という名称でいわれるそうですよ。
中辺路の分岐点
敷地の角、43号線に沿った場所に「振分石(ふりわけいし)」という石柱があります。
古いので、黒くなっている石柱が建ってます。
熊野古道の中辺路・大辺路・伊勢路の接点、分岐点を示し、万治元年(1658年)に建てられました。
これは300年毎に新しくなっていたそうです。
浜の宮王子は、重要な要所にあったということが分かります。
また、この王子で、那智山への参拝前に、潮垢離(しおごり)という、心と身体を清めるということをしていました。
補陀洛山寺は、こういう浜の宮王子の神宮寺(神社に付属するお寺)もしくは守護寺といえます。
いうまでもなく、熊野古道の一部です。
渚の森
今でも境内には大きな楠があります。
1808年に、大伽藍を破壊する台風があったので、その時に、森のほとんどが、消滅したのかもしれませんね。
浜の宮の大楠 推定樹齢800年
補陀洛渡海(ふだらくとかい)
歴代のお寺の住職(もしくは上人)は、60歳、61歳になると、南の海の彼方にあるとされる観音浄土の補陀落浄土を目指し、30日分の食料と水を積んで船出して、補陀落渡海という宗教儀礼をしました。
修行を重ねた、徳が高いとされる住職や僧侶が行いましたが、若い人では、戦国時代、世を憂いて18歳で渡海した人もいるそうです。普通の人も、渡海したのですね。
観音菩薩浄土では、衆生の願いが叶い、救われるとされていました。
生きながらの仏道の修行ということだそうですー
生きた人を小さな船の上に作った箱のような室内に閉じ込め、2度と生きて帰れない状態で、荒海に放り出す話を聞きたくないとする人もいるでしょう。
数十年前、私も経験ありますが、お寺のお坊さんは、その地域の人々に慕われてました。人格もあり、家庭の心配事の相談等、普通にしていました。今とは隔世の感があります。それを思い出します。
心やさしく、人々の幸せを思って、自らの命を海にささげた住職さんも多数いたのではと想像します。そのお坊さん達を思って、この記事を書きます。
気楽に読んでいただけたら嬉しいです。
渡海の方法
毎回、同じ方法を採ったという訳ではありませんが、その大体の方法をまとめます。
時節は11月、北風の吹く時期が選ばれました。
わずか5-6メートル程の小さい船は(お寺の境内に1993年製作のレプリカ船があります。)別名、棺桶と呼ばれ、渡海僧は、その小さな室内に入ります。
同時に、そこから脱出できないよう板がはめられ、釘が打たれました。
時には船底まで釘を打ち、脱出できないのを確実にしたそうです。
内部は、棺桶という別名を持つほどの狭さと暗闇です。
そして、浜辺から、二隻の船が渡海船を沖へと引いていき、帆立島で、渡海船の帆を揚げます。
綱切島では、引いていた綱を切りました。
このふたつの島は、那智の浜の近くにあり、誰が見ていたかは不明ですが、誰もがそれを見ていたであろうということのようです。
渡海僧は、船が沈むまで、お経を唱えていました。
小さな船は釘打ちされているので、船内の穴から海水が入ってくるのでは。
船が沈むのは時間の問題だったのではないでしょうか。
海水も低温で、船が沈む前に僧の心臓が止まるのが先だったかもしれません。
境内にある石碑(補陀洛渡海記念碑)に、平安前期の868年の慶龍(けいりゅう)上人から江戸中期の1722年の宥照(ゆうしょう)上人まで25人が観音浄土を目指して船出をしたと刻まれています。
この那智の海辺だけでなく、日本の各地(茨城県の那珂湊(なかみなと)、高知県の足摺岬、室戸岬、栃木県日光、山形県月山など)で40件以上の補陀洛渡海がありました。(記録されていない数もいれると60件はあるでしょうか。)
その半数以上は那智で実行されていたようです。
渡航内容の変化
平安時代から鎌倉時代までは、本気で、純粋に、補陀洛往生を求めて渡海したようです。
観世音菩薩様の前に行きたいと切望するのは、至極、純粋な気持ちだったのかもしれません。
その後の室町時代になりますと、儀式化したようです。
江戸時代には、それが変化し、生者の生きながらの渡海は行われず、住職が亡くなった場合、あたかも生きているごとく渡海の方法で水葬を行うようになったそうです。
そのきっかけとなった住職が金光坊(こんこうぼう)です。
金光坊(こんこうぼう)
戦国時代の終期、1565年、金光坊(こんこうぼう)という住職、61歳の時、船出しました。
しかしながら途中で命が惜しくなり、屋形を破り、船から逃げだしました。
役人、町人はこれを認めることができず、金光坊を海に突き落として殺してしまいます。
この事件がきっかけとなり、生者の補陀落渡海はなくなったそうです。
現在、那智の浜近くに金光坊島(こんこぶとう)と呼ばれる岩礁があります。
この住職さんは他の僧とちがって、上人(しょうにん)とは呼ばれていませんね。
高僧でも、死にたくない場合があると人々は初めて気づき、犠牲者を出すことに躊躇したということでしょうか。
有名な人を、さらに2名上げます。
平維盛(たいらのこれもり)
「平家物語」によると、平維盛が熊野詣での後、入水(じゅすい)したということになってます。
平維盛は、平清盛の孫で、1180年に源氏追討の総大将となりましたが、1183年に源義仲の軍に敗れ都落ちし、大敗します。
翌年(1184年)、高野山で出家、那智で入水したとされてます。
しかしながら史実かどうかは不明です。
その後、色川に住んでいたという伝説もあります。
裏山に供養塔があるとのことなので、興味のある方は、どうぞ、行ってみてください。
お足元には十分気を付けて歩いてくださいね。
日秀上人(にっしゅうしょうにん)
もうひとつの例として、16世紀の渡海僧、日秀上人(にっしゅうしょうにん)があります。
黒潮に逆行して西へ流され沖縄へ漂着したそうです。
沖縄で熊野信仰を広めたとされます。
少数ですけど、こういう人が、いたのですね。
補陀洛山寺のご本尊
ご本尊
最後に、三貌十一面千手千眼観音(さんみゃくじゅういちめんせんじゅせんげんかんのん)を、ご紹介します。
172cmの高さがあり、平安時代の作です。国の重要文化財に指定されています。
繰り返しになりますが、本地垂迹(ほんちすいじゃく)とは、「神が人々を浄土に導くために、仏が仮の姿になって現れたもの」を意味します。
「本地」とは仏です。本地垂迹とは「仏が神となって現れる」ということです。
「権」は、「仮に」という意味で、権現は「仮に」「現れる」という意味です。それで仮に現れた神は「権現」です。
そうすると、熊野三所権現は以下のようになります。
①本宮の神の家津御子大神(けつみみこのおおかみ、家都美御子大神) 阿弥陀如来
②那智の神の夫須美大神(ふすみのおおかみ、熊野結大神) 千手観音
③そして、新宮の速玉大神(はやたまのおおかみ) 薬師如来
仏教では、阿弥陀如来は西方極楽浄土、千手観音は南方補陀落浄土、薬師如来は東方浄瑠璃浄土とされます。
熊野が浄土の地といわれる所以(ゆえん)でもあり、ご本尊が千手観音となります。
同時に南方補陀洛浄土となるのです。
正直いって、なんだか煩雑この上なく、訳が分からなくなりますね。
それはさておき、どうぞ遊びにきてくださいね。
どの仏様も神様も、あなたをお待ちしてます。
楽しい時間を過ごしませんか。