八咫烏(ヤタガラス)
一般的にカラスは頭の良い動物と言われていますが、熊野三山のどの大社でも、八咫烏は神の使いとして、特別な存在となってます。
カラスって皆さんが思っている以上に賢いんですよね。ご存知でしょうか。
うちの近所によくつがいで来ましたが、少なくとも小さな子ども位の賢さがあります。
一羽が羽を痛めていたので、観察していたのですが、カラスもこちらを見ていて、うちの庭と、その近所に定期的に来るようになりました。よく鳴いているし、住みつかれたら、人としての居住性が悪化します。
フンや餌の問題とか、野生の動物とは日常一緒に暮らせないので、しばらく放置しておきました。
そのうちいなくなったのでホッとしましたね。
八咫烏(ヤタガラス)という名前
この名前、「八咫烏」と聞くと、なんだか、かっこいいと思います。
みなさんはどういう印象を持っていらっしゃるのでしょうか。
この漢字、咫(あた)とは、古代から使われた長さの単位で、手の平の付け根から中指(もしくは人差し指)の先端までの長さです。親指と中指とを大きく開いた長さとほぼ同じで、この長さを一咫(ひとあた)といいます。 標準的な手の大きさの人だと17~18cm前後となるでしょう。そうすると八咫は、18センチX8=144センチとなり、そんな大きなカラスはあるのか?ということになります。
実際の意味としては、八咫とは非常に長いこと、大きいことを示します。
また、八咫の読み方は本来「やあた」ですが、音が変化して、「やた」となり、ヤタガラスとなりました。
何故、足が3本あるのか?3つの理由
足が3本ある八咫烏。その理由は諸説ありますのでご紹介いたします。実際には不明です。
① 八咫烏を三本足とする最古の文献としては、平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう、平安時代中期に作られた辞書)があります。
この頃、中国や朝鮮の伝承の鳥、三足烏(さんそくう)が太陽を象徴するカラスということで、太陽の化身という八咫烏と同一視されて、三本足になったとされています。
② また、熊野本宮では、三本足は熊野三党(宇井、鈴木、榎本)を表すと言われています。
③ もしくは、本宮神社としては、家津美御子大神の御神徳である智・仁・勇または天・地・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしています。
熊野本宮大社の境内に「八咫烏(由来」という案内板があります。
本宮での解釈が詳細に案内されていますので、現地でご確認ください。
重複いたしますが、ここで、それに基づいて、一部だけのご紹介です。
熊野では八咫烏を神の使者と言われています。
三本足とは熊野三党(宇井・鈴木・榎本)表すとも言われ、当社では主祭神 家津美御子大神(素戔嗚尊)の御神徳である智・仁・勇、又 天・地・人の意をあらわしています。
烏は一般に不吉の鳥とされてきているが、方角を知るので未知の地へ行く道案内や、遠隔地へ送る使者の役目 をする鳥とされており、熊野の地へ神武天皇御東征の折、天皇が奥深い熊野の山野に迷い給うた時、八咫烏が御導き申し上げたという意があります。
八咫烏の正体
日本神話に登場する烏で、神武天皇を大和の橿原(かしはら)まで案内したとされており、導きの神として信仰されてます。また太陽の化身です。
神武東征の際、古事記によると、高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)によって神武天皇のもとに遣わされた神使(しんし、神の使い)、日本書紀によると天照大神によって遣わされた神使とされています。
古事記とは、奈良時代の和銅5年(712年)に編纂された歴史書です。天武天皇の勅命で稗田阿礼が誦習(しょうしゅう、書物などを繰り返し読んで学ぶこと)し、元明天皇の命で太安万侶が文章に記録しました。日本最古の歴史書で、天皇による支配を正当化しようとしたものです。上巻、中巻、下巻含め全巻すべてを天皇に関する神話とみなして良いとされてます。
日本書紀とは、舎人親王らにより日本で最初につくられた勅撰正史です。720年に完成しました。太安麻侶も編纂に参加してます。神話的な物語や歴代の天皇について書かれており全30巻からなります。巻1と2は神代、巻3~30は神武天皇から持統天皇までを編年体で記述してます。当時、大陸や朝鮮との関係をふまえて国家意識からの政治的要求があり、それが成立理由です。
同時代の『古事記』と合せて「記紀」と称します。
神武天皇とは、「記紀」で、第1代目の天皇です。
名前は神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)といいますが、さまざまな名称があります。
また「記紀」の上での人物なので、実在したかどうかは不明です。
八咫烏とパワースポット
「よみがえりの地」、熊野では、八咫烏が、こよなく愛されているのは何故でしょうか。
本文の後半で登場する内野教授(1884年~1953年)は、実は、14歳の時、曹洞宗大乗寺(石川県金沢市)の養子となり、禅宗の僧侶でした。
同時に漢学者です。中国古典の、太陽の精としての八咫烏をよくご存じでした。
日名子実三氏は、「スポーツ芸術」という新ジャンルに大きな足跡を残した著名な彫刻家です。
昭和3年(1929年)頃に、ヨーロッパ留学し、スポーツ美術がギリシャ神話からモチーフを取っていることを学び帰国しました。
その後、日本の建国神話をモチーフにした作品を残しています。
日本サッカー協会の標章も、日本の神話「神武東征」の八咫烏を題材としたもののうちのひとつです。
内野台嶺氏の大学時代の先輩が、日本サッカーの始祖、中村覚之助です。
中村覚之助氏の生家である浜の宮は、神武天皇が上陸したという伝説のある丹敷浦(にしきうら)で、八咫烏がここから神武天皇を那智山に導いたといいます。
九十九王子のひとつ、浜の宮王子が鎮座し、近年まで八咫烏をデザインした牛玉宝印(ごおうほういん)を出していました。
覚之助氏には熊野信仰の宗教環境と八咫烏伝説が、自分の心身の一部のように、あったのではないでしょうか。
1997年、サッカー日本代表チームは悲願のワールドカップ出場への初出場を決めました。
その時の三本足の烏のエンブレムに注目が集まり、神武東征を道案内した八咫烏を神烏とする熊野三山の八咫烏も、同時に、人気となりました。
聖地、熊野には、「超自然的存在が出現する場所」という歴史があります。
八咫烏はまさに、海の彼方、豊穣の常世からの使者であり、神使、時空を超えた摩訶不思議な烏というと大げさに聞こえるでしょうか。
熊野権現は中世からの「日本第一大霊験所」というパワースポットです。
パワースポットの熊野三山に、八咫烏の霊性がどういう特異性と力を持っているのか、
その霊性を持つ、不思議な八咫烏が、こよなく愛されるのがふさわしいのは、
このような理由があるからといっても過言ではありません。
神の使いとしての八咫烏
八咫烏の正体をもう少し詳しく掘り下げます。
八咫烏は神の使いです。難しい言葉でいうと神使(しんし)といいます。
神道においての神の使者、使い、もしくは神の眷族(けんぞく、その神社の神様にお仕えする存在のこと)で神意を代行して現世と接触する者と考えられる特定の動物のことです。
その動物としては、それこそ、哺乳類から、鳥類・爬虫類、想像上の生物まで広範囲に存在してます。
具体例としては、多数あるので、その中で数例を選びますと、神社の狛犬、弁財天の蛇、稲荷神社の狐、春日大社の鹿、八幡宮の鳩、毘沙門天のムカデ 等々です。
熊野速玉大社では、神倉神社のゴトビキ岩はヒキガエルですし、権現山の上には牛の背という石があるのをご存じでしょうか。
神使は、また、御先(みさき)ともいい、この場合は、日本の神、悪霊、精霊などの神霊の出現前に現れる霊的存在の総称のことです。
神霊が人間界に現れる際に、その予兆や使いのような役割を果たす小規模の神霊といわれ、八咫烏のように動物として現れます。
みさきとしての八咫烏が、神武東征の際に神武天皇の先導をしたように、重要なことや神の降臨に先駆けて現れ、その役割を果たしたと理解すると分かりやすくなりますね。
熊野三山の烏 八咫烏
熊野三山にとって烏は特別な存在ですと重ねていいました。
それは「牛玉宝印、ごおうほういん」にも表れています。
そこにカラス文字が使われていて、独特な災厄除(さいやくよ)けの護符となっています。
みなさんは、見たことがありますでしょうか。
「熊野山宝印(新宮)」
「熊野山宝印(本宮)」
「那智瀧宝印」
「牛王宝印」もしくは「牛玉宝印」は「ごおうほういん」と読みます。
略して牛王ともいいます。
半紙大の紙に八咫烏が書かれています。
熊野の神は虚言を正すとの信仰から、中世以後の武士は起請文(きしょうもん)を書くのにこの牛王宝印の裏に署名しました。
起請文とは、日本でかつて作成されていたものです。
人が契約を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書のことをいいます。
最後に、約束を破った場合にはこれらの神仏による罰を受けるという文言を書いて誓います。
つまり、厄除けのお札としてだけでなく、裏面に誓約文を書いて誓約の相手に渡す誓紙としても使われてきました。
中世、鎌倉時代後期ごろから、起請文は各地の社寺で頒布される牛王宝印(ごおうほういん)の裏に書くのが通例となり、なかでも熊野三山の牛王宝印がよく用いられました。
熊野の牛王宝印に書いた約束を破ると熊野の神使であるカラスが3羽死に地獄に堕ちるとされ熊野誓紙と言われました。なんと。
昔の、心が純真な人達は、それこそ、この起請文にのっとって命がけで、生きていたのでしょうね。
さらにいうと、徐福もが求め、蓬莱の国として願望された郷だった、というと大げさに聞こえるでしょうか。
神武天皇の功績って?
神武天皇って?
八咫烏は神武東征に登場します。
それで、先ず神武天皇についてご説明いたします。
神武天皇とは紀元前711年2月13日に生誕し、大和を平定した日本国の創始者、初代天皇です。
崩御は紀元前585年なので、127歳まで生存したことになってます。
日本最強の神様の天照大神の末裔で、5番目の孫(来孫、らいそん)にあたるのだそうで。
天照大神を一言でいうと、おなじみの伊勢神宮の神様です。
日本の国土を作ったイザナギ、イザナミのたくさんの子どもたちの一人で、女神、太陽神です。
生まれたのは今の宮崎県の日向(ひゅうが)です。
日向の高千穂は天孫降臨の地として有名ですよね。
どういうことかというと、天照大神が、地上を統治させようと天孫(天の子孫)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を天上の国、高天原(たかまのはら、たかまがはら、海の上の雲の中に存在した神々が生まれた場所)から南九州の高千穂の峰に降ろしたことをいいます。
神武天皇の諱(いみな)は、紀の記載によると神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)です。
中国、日本では人の死後その実名をいうことを忌む(いむ、嫌うこと)のでそれを諱といいました。本名を指し、特に生前の名をその死後に人々がいう場合の名をいいます。特に貴人などの実名、諱は口にするのもはばかられました。
神武東征の足跡
神話では、45歳のとき東征を企て、南九州の日向から東進し、筑紫・吉備をへて河内国に入りました。
その時の東征のコースは以下となります。
★宮崎(高千穂)→ 大分(宇佐)→ 福岡(筑紫)→ 広島(安芸)→ 岡山(吉備)→ 大阪(浪速)
瀬戸内海から近畿に進もうとしました。が、西から大阪に攻め入り、現在の東大阪の孔舎衛坂(くさえざか、くさのさか)で生駒山の豪族の長髄彦(ながすねひこ)に敗戦しました。
この時、一番上の兄、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は矢に当たって負傷し、後に死亡します。
この兄以外に、二人の兄があり、神武天皇は4人兄弟の末っ子でした。東征の途中で兄はみんな亡くなり、一人となります。
そこで、「太陽神の天照大神の子孫なのだから、日に向かって、西から東へ日に向かうのではなく、回り込んで日を背にして、東から西へ日を背にして攻め入るのが正しい」と考えなおします。
それで一行は南へ回り込むコースを取りました。
★和歌山、三重(熊野)→ 奈良(宇多)→ 奈良(橿原、かしはら)
熊野に来た時、大熊が現われてすぐに消えました。すると神日本磐余彦尊(かんやまといわれびこのみこと)を始め、率いていた兵士たちはすべて気を失ってしまったのです。
この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、大刀を持って来ると、神日本磐余彦尊は、すぐに目が覚めました。
そして高倉下から神日本磐余彦尊がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちも意識を回復したといわれています。
八咫烏の登場
次に、天照大神の使者といわれる八咫烏の先導により、険しい熊野の山々を越えて宇陀(うだ)に至り、次々と豪族を討ち倒していきます。
さてさて、またまた、長髄彦(ながすねひこ)との再戦となりました。
闘いの初期は困難でしたが、飛んできた金の鵄(とび)が神日本磐余彦尊の弓の先端に止まり稲妻のごとく光り、長髄彦の軍勢の目をくらませ、戦う気力を消失させてしまいました。
こうしてこの戦いに勝利した神日本磐余彦尊は、橿原の地で初代天皇として即位したと紀に記されています。
大和を平定し橿原宮にて即位しました。
朝廷の始まりです。神話なので、大和朝廷ではありません。
直線的、時系列的に神武天皇の功績についてこういうことになるかと。
神話上の建国の父が誕生いたしました。
熊野三山との関係
神日本磐余彦尊は、熊野では、軍を率いて狭野(さの)を越え、熊野神邑(みわのむら)に着き、天磐盾(あまのいわたて)に登ったとされています。
この狭野とは現在の新宮市佐野のことで、一方、神邑(みわのむら)は阿須賀神社あたり(石碑が境内にあります)、天磐盾は神倉神社のある神倉山です。
即位して神武天皇となります。
天照大神をはじめとする天津神の末裔で、山神・海神という大自然の神々も取り込み、さらに国津神(くにつかみ、高天原の神々に対してこの地上に出現した神々、そして天津神の後裔。) の末裔と婚姻し、あらゆる神々を合一化しました。
それ故、国家安寧や安泰を意味し、「建国記念の日」においては、その即位を祝う紀元節が国民祝日となっています。
八咫烏、もうひとつの正体
熊野三山で神の使いとされる八咫烏は、神使(しんし)、眷族(けんぞく)、御先(みさき、ミサキ)とよばれます。
神道において神の使者、神使は、神意を代行して現世と接触すると考えられる動物のことです。
哺乳類から、鳥類、爬虫類、想像上の生物まで、ありとあらゆるものを含んでいるといっていいほどです。
眷族(けんぞく)とは神使と同じ意味ですが、家来、従者、身内というニュアンスがあります。
神と同様に人間を超える力を持ちます。
みさきは、日本の神、精霊、神霊の出現する前に現れる霊的存在の総称とされています。
神霊が人間界に現れる前に、その予兆もしくは使いの役割を果たす小さな神霊のことです。
単純な一例をいうと、なにか嫌な予感がする、もしくは、なんだか気分が悪くなって、予定を変更したいと思ったりしたことがありませんか。
そういう目に見えない、小さな予兆のようなものを感じたら、ミサキが来ているかもしれません。
古い時代の神話や伝承では、動物は人間にはない能力があるのでは、不思議な霊力があるかもしれないと思われていたのでしょう。
もし、今、カラスたちの鳴き声を理解できると仮定すると、人間より優れていた―なんてことも想像できるかも、です。
個人的には、私は鈍感で何も感じません。
百歩譲って、予兆をもらっても何も分からず、馬耳東風で終わるでしょう。
経験を重ねると、嫌な予感がするということはありますが、霊能力とは全く無関係な人生を送っています。
悪しからず、どうぞご了承いただけたらと願います。
熊野三山だけでない八咫烏
先ず、熊野三山の速玉大社と那智大社で、八咫烏を神様としてお祀りしている神社をあらためて、ご紹介します。
実は、八咫烏は、建角身命(たけつぬみのみこと、たけつのみのみこと)という神です。
八咫烏は神だったのですね。
熊野速玉大社 八咫烏神社
正面の一番目の鳥居を入った右側の場所にあります。
ご祭神 建角身命(たけつぬみのみこと)
熊野那智大社 三縣彦社(みあがたひこしゃ)
礼殿を正面にして左側にあり、八咫烏の銅像もありますので、見逃すことはないかと。
御祭神 建角身命(たけつぬみのみこと)
八咫烏を神として、お祀りしている神社は沢山あります。3ヶ所の神社を挙げます。
①八咫烏神社
奈良県宇陀市榛原高塚42
奈良県の宇陀市、榛原高塚(はいばらたかつか)に八咫烏神社があります。
実際に行ってみると牧歌的な場所にある神社かと。
近鉄大阪線榛原駅から4キロほどです。
日本の正史、六国史の第二となる「続日本紀(しょくにほんき)」に八咫烏神社とあるので、それを根拠に705年の創祀(そうし、神社のはじまり)とし、ご祭神は八咫烏です。
この神社は、神武天皇を導き勝利に貢献したことから、交通安全、厄除(やくよけ)、必勝の祈願にご利益があるとされてます。
八咫烏像はコミカル風で、お人形のようですね。
地元の石材店が制作し榛原町観光協会によって奉納されたとのことです。
②下鴨神社
京都市左京区下鴨泉川町59
正式には、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)といいます。
鴨川の下流のお社というところから「下鴨(しもがも)さん」、「下鴨神社(しもがもじんじゃ)」という通称となってます。
ご祭神は、西本殿が、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、東本殿が、玉依媛命(たまよりひめのみこと)です。
西本殿の賀茂建角身命とは八咫烏のことです。
東西の両殿は江戸時代末期(1863年)の建設で、ともに国宝です。
通常の参観では見れません。
③厳島神社(広島県)
宮島の厳島神社では、八咫烏ではなく、神烏(おからす)とよばれます。
東側回廊の参道入口に、一対となっている石灯籠の上にいます。
1901年に銅製で作られました。
2羽の烏のうち、1羽の口は開き、もう1羽は閉まっているという、阿吽の八咫烏です。
かわいいですね。
厳島神社には鹿もいますが、使者ではなく、通常の鹿だそうです。
他の神社
八咫烏を「神の使いとする」、もしくは「神事としている」神社は他にもあります。
簡単に数か所のリスト・アップをいたします。
羽黒山・出羽神社(山形県)はぐろさん・いではじんじゃ
大国魂神社(東京都)おおくにたまじんじゃ
津島神社(愛知県)つしまじんじゃ
多賀大社(滋賀県)たがたいしゃ
熱田神宮摂社・御田神社(愛知県)あつたじんじうせっしゃ・みたじんじゃ
橿原神宮(奈良県)かしはらじんぐう
日本サッカー協会と八咫烏
日本サッカー協会のシンボルマークで、日本代表チームのユニホームにも使用されている八咫烏は、「勝利へと導く守り神」として有名です。
公式には発表されていませんが、八咫烏を登用した理由は、日本に初めて本格的にサッカーを紹介し、その普及に貢献したという人物、中村覚之助(なかむらかくのすけ)が、那智勝浦町浜ノ宮の出身というところから来ています。
中村覚之助 なかむらかくのすけ 八咫烏
以下、敬称略でお話しさせていただきます。
1878年(明治11年)、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮で生まれ、神社の氏子を務める家柄でした。
1899年(明治32年)、和歌山師範学校(現・和歌山大学教育学部)を卒業し、宇久井尋常高等小学校(現・宇久井小学校)で教師となりますが、1年で退職しました。
1900年(明治33年)、東京高等師範学校(現:筑波大学)に入学します。
この時の学費は兄がオーストラリアに出稼ぎに行っています。
当時の和歌山の紀南地方では、オーストラリア、米国、カナダへ出稼ぎに行くことがありました。
1902年(明治35年)、教授の坪井玄道が持ち帰った本「アッソシェーション.フットボール」を翻訳し、ア式蹴球部(現:筑波大学蹴球部)を創設します。これが日本で最初のフットボール(現在のサッカー)のチームとなります。
これが日本のサッカーの始まりとされています。
1873年(明治6年)に、日本にサッカーが伝わっていたのですが、ルールが混在し、純然たるサッカーではありませんでした。
中村は選手としては参加せず、部の運営やルールの指導をしていました。
1903年(明治36年)秋、「アッソシェーション.フットボール」を編集し、東京高等師範学校蹴球部より出版しました。日本最初のサッカー指導書となります。
1904年(明治37年)2月6日には4年生の中村の企画で東京高等師範学校は横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブと日本で最初のサッカー対外試合を行うことになりました。
横浜の外国人のクラブと初めての対外試合でした。
実施に向けての交渉は覚之助が行い、同クラブに「挑戦状」まで送りました。
結果は0-9の大敗でしたが、統一したルールで初めて行われた、日本サッカー史上の記念すべき試合となりました。
これが報道されると全国から指導依頼が殺到します。
中村覚之助は1906年(明治39年)に29歳で夭折します。
日本サッカー協会のシンボルマークは1931年(昭和6年)に図案化されました。
これの発案は、東京高等師範学校の内野台嶺(うちの たいれい)を中心とする人たちで、内野は中村の後輩にあたります。
この内野台嶺は1906年頃の蹴球部員でした。
当時、中村覚之助は神様のように慕われ、内野は、和歌山県那智勝浦町の神社のシンボルである八咫烏を図案として取り入れたというのが有力な説になっています。
日本サッカー協会のシンボルマークは日名子実三(ひなご じつぞう)がデザインしました。
JR那智駅前に、没後100年を機に建立された顕彰碑があります。
その石碑には「日本サッカーの始祖」と刻まれています。
同じ駅前の敷地内の那智駅交流センターには、 中村覚之助と日本サッカーに関する展示コーナーがあります。
ワールドカップ、オリンピックの開催前には、監督、協会関係者が優勝祈願に現地に来るようですよ。
八咫烏 なでしこジャパン記念モニュメント
みなさんはご存知でしょうか。
熊野那智大社の近く、国道42号線から入った県道46号線に沿う、大門坂駐車場の出入り口近くに、「なでしこジャパン記念モニュメント」があります。
日本サッカーと那智勝浦町の深い関係を示すものとして2014年に建立されました。
シンボルマークの発案者とされている内野台嶺氏の説明文が石碑にあるので、その一部を抜粋いたします。
日本サッカー協会の初代理事の一人の内野台嶺氏(うちのたいれい)は、中村覚之助氏の後輩にあたる。明治39年(1906年)、中村覚之助氏が逝去した訃報を聞き悲しんだ一人でもあり、「君の霊は永久に我が部の護神となりて・・・」と中村覚之助氏のことを偲び八咫烏(やたがらす)として提案したことが、まったく無関係ではなかったと考えられる。
まさに神として慕われた、中村覚之助氏の存在がここに示されています。
2011年、FIFA女子ワールドカップ、ドイツとの優勝と、翌年のロンドンオリンピック女子サッカー準優勝を記念して、この大門坂駐車場に建立されました。
元々、2011年のドイツ大会優勝を受けて計画されましたが、同じ年の紀伊半島の豪雨災害で一時中断されたものです。
佐々木則夫監督、また、おなじみの選手達の足型と手形(ゴールキーパー)があります。
高さ約1・9メートル、白御影石の上には、熊野那智大社が神の使いとして祭る八咫烏(やたがらす)が大きく羽を広げ、金色のサッカーボールを足で押さえるデザインとなっています。
かなり格好良く、いかにも勝利へと導いてくれそうな雰囲気があります。
神の使い、太陽の化身、八咫烏は、試合を勝利へと導く守り神として、まさに最強と言えるでしょう。